母親は俺の顔も名前も忘れた
こたきひろし

施設の部屋を訪ねると
縦長の狭い部屋にはベッドが二人分縦に並べられていた
殺風景で閑散としていた部屋の中には
それぞれのベッドの側に簡易の便器が置かれていた

部屋の中に立ち込めた臭気が鼻を刺激した
入り口に近いベッドには知らないご婦人が横たわっていた
私と妻がドアから入るとその人は目をあけている様子がうかがえたが反応は感じられなかった

私の母親は窓際のベッドに寝ていた

窓の外側に見えていたのは隣の建物の壁だった

老婆は眠っていた
老醜をこの世界に存分に晒して
その姿はまるで生きるしかばね
かもしれなかった

起こさずにこのまま帰ろうと
私は思った
折角来たんだから

妻が言った

母さん
私は声をかけて静かに母親の体をゆすった
すると目をあけたが、
誰?
と言う顔で私と妻を見た
だけだった

そしてふたたび目を閉じた
私はその時携帯をボケットから出してカメラ機能にした
母親に向けてシャッターを切ろうとして妻に制止された

制止を振り切って連写した
それから妻を促し
素早く部屋を出た

施設から外に出ると
昼下がりの空は青々と晴れ渡っていた


自由詩 母親は俺の顔も名前も忘れた Copyright こたきひろし 2019-05-16 00:41:26
notebook Home 戻る