その振動が記憶している
ホロウ・シカエルボク


洞穴を突き抜ける風が立てるような轟音がずっと聞こえていた。日中ずっと度を超えた太陽に炙られ続けて乾ききった身体のせいかもしれない。あるいはもっと他のなにか、もっと根の深い―ウンザリするような原因があるのかもしれない。でも差し当たりそれは、「夏のせい」にしておいても問題はなかった。問題があるとしても、今日のことではないだろうということだ。遠い過去にどこかで、そんな音を聞いたことがあるような気がした。でもそれが果たしてどこでのことだったのかはしばらく考えても思い出せなかった。現実のことではないのかもしれない。おぼろげなイメージ…あるいはそういったものに変換されたまるで種類の違う出来事―そういう類のものだったのかもしれない。けれどそれも結論として存在しなくても構わないものだった。判ったところでスッキリするとか、失われていた記憶が蘇るとか、そういったことではないような気がした。ああ、そうなんだ、と思って片付くような、些細なことだった。実際に鳴り続けているその音は、ただ垂れ流しているテレビや、たまにたわいもないメールが届く携帯に飽きていた俺にはちょっと興味深いコンテンツのようなものだった。その音そのものには、特別に何かを語ろうというような意志は感じられなかった。あったとしても蝋人形館の蝋人形の瞳程度のものだった。だからこそ俺はそれを不快に感じなかったのかもしれない。ただ呆れるほどにあっけらかんと、整然と轟音としてそれは鳴り続けていた。プレッシャー?フラストレーション?イニシエーション?…原因と思えそうな単語をいくつか挙げてみたら、まるでジャパニーズロックの歌詞の一説のようだった。下らないフレーズだけど、こんな風に考えてみたらそれはあながち間違いじゃないのかもしれない―それは確かにそうなんだろう。完全に間違っているものなら、それを支持する人間など皆無だろう…。轟音のおかげで他の音は聞こえなかった。それは結果的に静寂と言ってよかった。ピース・&・ノイズ。ノイズが静寂になることは確かにある。ノイズが平和となる瞬間は確かにある―もしも詩を書いているような誰かがこれを読んでいるなら、このことはきっと理解出来るだろう。静寂がノイズのように存在することだって確かにある。俺はその辺の連中よりは多分、そういった類のノイズや静寂を感じてきたような気がする。それが俺をこんな文章に向かわせているんだ。これは静寂に向かうノイズであり、ノイズに向かう静寂なのだ。それがあるレベルで鳴り続けたとき―俺は得も言われぬ浮遊感の中で、眠りの中で見る前世のヴィジョンのような…感覚的な倍音とでもいうようなものを感じているのだ。あたかも突風のようなのに、風ではないその音。とてつもなくなにかが突き抜けているみたいに感じるのに、物理的に通過していくものはなにもないその音。まるでエアプレーンの幻覚のようだ、衝撃波で身体が震えるような感触まで、感じることが出来る。だけど生真面目にぴいんと左右に張られた羽はどこを向いても見つけることは出来はしない。目を閉じていると、存在がさらわれていくような気がした、波だ、と俺は思い当たった。もう十何年―あるいは二十年以上は前のことだろうか、こんな波の音を聞いたことがあった、台風の日だった…テトラポッドを一口で齧ろうとしているような高い波が、呼吸のようなリズムで何度も何度も押し寄せてきた。その日、俺は恐怖を感じなかった。あるいは恐怖のなかに、奇妙な安らぎを感じていたのかもしれない。真夜中だった。周辺には誰も居なかった。俺はテトラポッドのすぐそばまで歩き、アナコンダの食事を思わせるその波をずっと眺めていた。あの時そんな音がしていた、あのときずっとそんな音が…あの時俺が心のどこかで望んでいたもの、それはこの音のなかにあったのかもしれない。よう、という声を聞いた気がした、洞穴を突き抜ける風の音に混じって。


自由詩 その振動が記憶している Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-08-30 23:09:48
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