アキラというアノマリー
よーかん

日本に長く暮らしていると、日本の特異性に鈍感になる、日本は特殊である、でも当の日本人は、その中で淡々と日々の暮らしをこなしているため、その指摘に、今更反応することなど、海外からの方々に対する愛想笑い以外の表現としては、ほぼない、それが、その特殊な環境が、日本人にとっていかに居心地が良かろうとも、それを日本人がいかに居心地が良いと錯覚していようとも、朝七時の特急上野行きに身を捻り込み、立ち位置、足場を確保し、両隣の社会人の横顔を少し眺めてみるだけで、多くの日本人にとって、それが、まったく違和感がない空間であろうとも、その場所が、非人間的な空間であることは、小学生的な感性を、それを許すことを自分に言い聞かせることができたらなら、一時でも回復しえているならば、どの日本人にも明らかなことで、ただ、その事実を口にすれば、社会人として半人前、もしくは、反社会的な異分子とてして、人格的、いや、全人格的に、ほぼ全ての社会人により、否定され、嘲笑され、踏んづけられる、踏んづけてやる!そうオスギさんかピーコさんは言ってたけれど、日本の何か深い闇の不快な部分に光を照らす、あまり流行らなかったけれども、流行っても良かった、表現であると断言したい、踏んづける、踏んずける、なのか?ちゃんと勉強しとかなかったせいで、その違いも、どちらが正しいかも、ちゃんと説明できない、小学生レベルの文法なのだろうけれど、今、アキラを聴きながら、こうやってキーボードをカタカタやっている、AKIRA、欧米のアンテナ立っている系の人間には、エポックメーキングなアニメではあるのだけれど、日本人の、それも子供の頃から漫画を読み尽くしてきた一般的な昭和育ちにとっては、特別ではあるけれど、文脈の中の一つのシンボルでしかないそのアニメ映画も、欧米からの日本に対する視線、認識、それを変えた存在としてのエポックメーキングな存在だと説明すれば、その存在の大きさが理解出来るのかもしれない、海外がどう日本を観ていようと、結局、オイラにはナンも関係ない、そんな健康優良児な自己認識を維持出来ている人々にはまったく関係ないのかもしれないが、アキラが欧米人のナニを変えたか、その部分を、その何かを、説明出来れば、昭和だって悪くないぜと、子供の頃からワールドワイドウェブ漬けな洗練された少年少女にも、興味持ってもらえっかなぁ、それは、欧米人に日本的感性の何かが、欧米人が文化的特権階級だけに許されていると誤認していた、表現、クリエーティブでイノベーティブな表現なんて、ほぼ存在しないのだけれど、真正面からの真っ正直な自己表現こそが、その文化的表現の自由こそが、実は、どんな立ち位置の人間にも、太陽の光がどの人間にも同じ強度で届くように、どこの誰にも許されている、本質的な自由の象徴なのだと、知らしめたことにあるのであるのであると、自分で書いても、ホントかどうか分かんないような表現でさえ、そこに正真正銘のま正直が存在するならば、自由と平等なんんて、共存しえない抽象的な理想なんてのも、実は、そこだけで存在し得るのかもなぁ、なんて、思わせてしまったのである、そんなウソも言いたくなるほど、欧米人にとって、アキラは目からウロコな存在だったのである、そして、今日、コンニチと読んでもらいたい、今日そのショックの波紋は無限大のフラクタルとなり、その突然変異的な異分子の鮮烈なデビューによって、ありとあらゆる、欧米的表現はすでに、日本的表現が欧米的表現に塗り替えられ変容されたと同等のレベルで、変容するにいたっているのである、その事実が、西洋近代絵画の印象派が実は印刷派、日本の木版印刷のその明るすぎて透明過ぎる色彩感覚が、貧乏で敏感で、正当な絵画技法の習得から落ちこぼれた、どこの馬の骨かも分からない、碌でもない若者たちに光をもたらした、その事実が、いつの間にか隠蔽され、西洋独自の文脈から突然変異的に生まれたなんて、歴史が一時でも捏造されていたように、アキラのエポックメーキングな波紋の真相をつたえられる、昭和育ちの漫画読みの端くれとして、オイラはここで、そのアキラの素晴らしさを伝えようとしてはいるのだけれど、結局、オイラはただの、仕事もすっぽらかして、缶チューハイ二本飲んだだけで気分良くなって、やること見つかんないから、ネットフリックスつけっぱなしで、キーボードをカタカタ叩いている、ただの昭和生まれオヤジなのだから、オイラがこんなこと書いたところで、なーんにも変わらないのである。誤字脱字もご愛嬌なんて、そんな甘けりゃ、みーんな、みーんなで悠々自適。なのだ。


自由詩 アキラというアノマリー Copyright よーかん 2018-08-23 17:00:41
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