風景
◇レキ
方向や統率を取るために、生まれた隠喩は
つまりは説明の為の隠喩だ
しかしこと細かく説明すると隠喩は
ぐちゃ味噌に溶けて「それ自体」に近づいてゆく
それ自体とは説明ではない
なぜなら風景を風景と言っているだけだから(言葉が対象に溶けすぎるのだ)
詩作の肝は溶かし具合なのか
固すぎても、やわすぎても、見えない(しかし何故か、青いと見えたりもするような)
しかしそれは錯覚なのかもしれないが
方向こそが人に決める力を与え、生かしてゆく
より深い場で決めれるならば、浅いよりも生を豊かにするような
隠喩という固化させる道具は水風船の様にそれ自体を区別する
綺麗にくるくるそれ自体を膜で包み沢山の粒にしながら(そんな詩)
最後の最後に空に全部ばら撒いて彼方にどこまでも飛ばしてゆく(それは小さな一文に宿ったり)
※
その境を知りたい
人の内側においての生の力の強さ(楽しさ)は「そう決める」事がどれだけ出来るかだ
どれだけ確信を持って出来るかだ
他の見方、批評によって「溶ける」事がある
それは実質的な世界で苦しい
生の軸を失うから
それは感受性にも近い
時にそれは、毎日がこびりついた煤けた体を
ばりばりと剥がし、新鮮な色を自覚させる事がある
(それはつかの間の至上の快楽かも)
感受性とは他によって自分の心が破壊される事だ
心の内側にあった生暖かさを、その断面を
改めて実感として感じる事だ
その、治癒の過程の涙の事だ
※
人は「より正しく」世界を見ようとする性を持つ
何故ならより見えている方が優れている設定になっているからだ
しかしより深く見ることは、決める、という固定を溶かす
より正しく見ようとする性、と
決めることで人は生きること、は拮抗する
(人にはある程度の無知が必要なのか)
(どこまでも正しく見ようとした時ある一点で穴が開いて決めることが出来なくなる)
(結局風景は風景になり)
一つの在り方
自覚しながら、色を纏うこと、役に徹することなのかもしれない
一人一人が「それ自体」という「無限に葬られ続ける正しさ」に焦点を遠くで合わせながら
隠喩を超えた(?)そう主張する人として決めることを自分(人)によって固定させ
沢山の「様々なそう主張する人」によって正しさ(決めること)を保持させる
かつ、それぞれの主張によって「出し尽くす」(それ自体を覗かせる)
のがあるいはその境に何か、近いのもしれない
(主張は常にそれぞれ個人の利益に帰着しがちな中で
溶けがちな性質を持つ「詩人」はやはり弱いのかな)