戦争や平和
腰国改修

文豪トルストイの戦争と平和。戦争があり平和がある、というか、平和の尊さを感じたとき、それを失いたくないから、平和を願い、また、祈るということは多い。人間の深奥に潜む二つの何かが戦争を産み、平和を願う。戦争と平和は対立しているのか?と、考えてみたり、戦争を経験すれば平和の尊さが見に染みるなどと考えてみたり。昔、よく言われたのは、お前は苦労を知らない。戦争を経験してないからなと言われた。今の日本には戦争はないが、平和だろうか?と、考えてみたら、案外、形を変えた内戦状態ではないだろうか?と思えたりする。安全神話は崩れ、突然走り出した車に殺される人々。国外ならISのテロかというところだけれど、日本国内では?

肉体が破裂したり、腕や足がぶっ飛ぶのを戦争映画で見たことがあるでしょう。では、今の平和な日本でそれに近いシーンを見たことがあるかというと、ほとんど人はないけれど、そんな凄惨なシーンは少なからず決行されている。比べ物にならないが、少し前、車を運転していたとき、後方から女子高生の乗ったバイクがぶつかってきて驚いた。車から降りて文句を言おうと見たら、その女子高生の指はあらぬ方向に曲がり、肉が裂けて白い骨が飛び出していた。見る間に野次馬に取り囲まれ、まるで私が加害者であるかのような騒ぎになった。警察が駆けつけ事情を説明したら、突然女子高生に後方から衝突され、私が車を破損された加害者であるということを納得した。彼女の母がやって来て、もうすぐピアノの発表会なのにとなぜか私を見つめ恨みがましく呟いた。盗人猛々しいとでも言うべきか、いい加減にしてほしいと思った。平和なんだろうか?この、私が暮らす日本は?と思ったことを覚えている。

平和とは何だろうか?戦争は分かりやすい。目の前で実際に起こっているのだから。平和はどうだろう?平和は尊い、平和だからこうして詩を投稿したり、ビールを飲んだり、笑ったり、泣いたり、心療内科に通ったり(私ではないけど)、レンタルビデオ(未だにあるのかな?)を見たり、いちゃついたり、いじめたり、突っ込んだり、換金したり、その他諸々。人が好き勝手に、自由で気ままに楽しく生きる、生活する、それが出来る世の中や国は平和なんだろうか?

何となく、平和なんて、あまり深く突き詰めるつもりではなくて、戦争ありきなんじゃないだろうか?戦争が行われていない状態が平和なんではないだろうか?(あれ?なんかワケわからなくなってきた。ウィー、ヒック)。

だから、私は、戦争と平和というスタンスではなく、戦争や平和というスタンスなんではないだろうか?平和について語ることも、戦争の悲惨さや、戦争の地獄絵図を語り、学ぶことも大事だとは思うけれど、人間とはなんだろう?なぜ、人間の歴史は戦争の歴史なんだろう?戦争はなぜ起こる?戦争とはなんだろう?世界から戦争や紛争をなくすには?などなど、戦争寄りで考えてみる方が効果的なように思えたりする。

ただ、間もなく、人類は地球を離れ、肉体や、病気、不老不死など、サイバーパンク的とまでは言わないけれど、死が意味を持たなくなったり、形而上のことがはっきり見えたり、宗教や哲学が崩壊したりしたならば、その時は戦争の意味がなくなり、平和も何もあったものではなく、次の人類様なものが、詩みたいなものを発信するのだろう。

あと、百年、二百年ほどすれば、何もかもが劇的に変わるけれど、我々人類はそのことに気がつかすにいるだろう。


散文(批評随筆小説等) 戦争や平和 Copyright 腰国改修 2018-03-28 19:46:15
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