いつだって気づかないところで孵化は続いている
ホロウ・シカエルボク


狂気は茸の胞子のように弾けて、部屋中を漂い、石膏ボードを隠す味気ないベージュの壁紙に羽虫のように止まる、ばらばらの間隔で点在するそいつらは、どこかの阿呆の妄想があれば星座になることだって出来るだろう、あるいはオカルティックな、示唆を込めたサインのように…だけどそれは血しぶきと同じでたまたまそんなふうに飛び散っただけのことさ―余計な注釈をつけようと思っただけで真実はどこかへ姿を消しちまう、シンプルの定義は、あらゆるものを見ようとした結果がその手になければ勘違いに引っ張られる、壁に残された偶然なんかにいつまでも気を取られていてはいけない、そこにはどんな示唆もない、雲のかたちと同じようなものにポエジーを期待してはいけないよ、ゴムボールを手に取って、その点在を潰すみたいに二、三度壁にバウンドさせる、エアーの具合は決して良くない、欠食児童よりは少しマシかもしれない、だけどそんな比喩はどんな慰めにもなりはしないだろう…キッチンのほうで張り詰めた物音が聞こえる、排水のパイプが寒さにやられているのだ、氷にもしも鳴声があるとしたらきっとあんなものに違いないぜ、床のペットボトルに少し残った水は数時間前の忘れ物だが、少し口に含んでみたらそのときと同じくらいには冷たかった、部屋の温度は管理されていない、エアコンは時に生きものを睡眠をとるだけの馬鹿にしてしまうから―ラジオからビートルズ、だけどその曲名を思い出そうという気持ちにもならない、彼らは自分の力で歌うことが出来ない連中の手によって神坐へと据え置かれた、その責任の大半はきっとジョン・レノンにあるだろう、でもそう悲観したもんでもないさ、ポール・マッカートニーはいまでも立派に商売を続けているんだから―飲み干したペットボトルを無意味に握り潰したりしないくらいには大人になることが出来た、だけどそのあとはこうして飛び散った狂気の行方を捜しているだけだ…煙草が好きなら火をつけるだろう、酒が好きなら栓を抜くだろう、だけどそのどちらにも興味はない、それらはなにを生み出すこともしないからだ、退屈を持て余しているのならそのままにしておけばいい、そうでなければ疑問を追及することだってままならないだろう、思考を止めないことだ、そうすれば隣人と同じような生きものになることもない…まるでラインを辿っているだけみたいな、そういう連中のことさ…「ラインを辿る」っていうのは、まさしく現代的な思考停止を表現するに相応しい言葉だな、そう思わない?ほんの少しだけ乗り遅れている感じは否めないけれどね、だけどそんな些細な誤差なんかきっと、取り立てて騒ぐほどの意味はありはしないさ、二十年前に書かれた小説が当時を象徴しているかどうかなんて判断することが出来るかい?ビートルズが終わって、イギー・ポップの年甲斐もないパンクロックが流れる、彼を一番パンクだと思ったのは、シャンソンを歌い始めた瞬間だった、だから彼はまた犬になりたがっているのさ、最高のジャンプはもう目指す必要はないからね、あとは楽しいことをやり続けるだけだ、アイ・ワナ・ビ・ユア・ドッグ、誰に向けて歌われている?それは誰に向けて歌われている言葉なんだ?それはきっと彼の年甲斐もない筋肉だけが知っているだろう、彼はパンクロックによって自分であり続けた、きっとただそれだけのことさ、最初のストゥージーズだけが正しいと言うのなら、二十歳そこそこで死ぬべきだ、そうだろ?ラジオのスイッチを切る、狂気を静寂が塗り潰す、他人の遺産をあれこれとこねくり回したところでどんなものにもなれやしない、よそ見をすればそれだけ自分の愚かさを見落としてしまう…ボールペンを手に取る、僅かなカラーボックスやチェストを押し退けて、ステップを持ち出し壁の隅からずっと、思いつくままに言葉を走らせる、そんな映画があった、ずっと昔、ゴダールが大好きな青瓢箪のデビュー作さ、でもあんなささやかな日記じゃない、この壁を埋め尽くすくらいの長い長い詩があると良いと思った、そうすればその他のどんなものも気にすることはない、いつだって読み返すことが出来る、気に入らないところが見つかれば塗り潰して書き直せばいい、もしもこの面のすべてにそれを書き込むことが出来たら、壁に向かって一生を費やすことが出来るだろう、だけど、そうさ、言葉自体に意味を持たせてはいけない、言葉自体に目標を持たせてはいけない、そこに意思があればすべては書かれた瞬間に終了してしまう、それはあくまでも、言葉では語れないものを語るために使われなければならない、俺たちは真実の幹から張り出した枝を飛び交う蝶だ、無数の葉に阻まれて幹に近付くことは絶対に出来はしない、下手したらそこに幹があることすら知らずに死んでいく、辿り着かないから目指すことが出来る、ふとした瞬間に垣間見えるその樹皮は




いつだってまだ死ぬわけにはいかないと思い出させてくれるだろう





自由詩 いつだって気づかないところで孵化は続いている Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-03-10 23:03:21
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