おだやかな道にとどまろうとしたって
ホロウ・シカエルボク



はぐれた鳥の影を追って帰り道を失う午後、時計屋の入口の上の壁に張り付いたアナログの文字盤は大嘘をついてせせら笑っていた、ハレルヤ、いつもより少しだけ暖かいものだからテレビのキャスターは微笑んで「春めいてきました」なんて微笑んでる、でも俺の脳髄は知っているんだ、まだここに容赦ない冬が居ついていることを…花粉の多い年だってラジオじゃほざいていた、ラジオが、まるでそれ重大事項であるかのように、喉の奥に痛みがあるのはそのせいなのか?そんなことに答えなんか出せやしない、正解に興味すらない―自動販売機を探していたんだ、もう二〇分は経っていた、歩き過ぎたことは自分でも判っていた、もうやめなくちゃ、やることがたくさんある、気まぐれは切り上げて帰らなくちゃ…頭ではずっとそう考えていた、だけど、身体はそんな声を気にもしないで、先へ先へと歩みを進めていた、バランスが欠けているんだ、枯れ果てた景色を眺めながら吐き捨てる、だけどそんなこと、べつに今に始まったことじゃなかった、そして、それが良いことだろうと悪いことだろうと、俺はそれに慣れ過ぎていた、そもそも、あらゆる事柄に対してバランスなんてことは考えもしなかった、あらゆる事柄の均整は失われて、崩れ去るべきだとさえ考えていた、そして皮肉なことに、俺は一〇月の二日生まれで、天秤座だった、「一番悲しいことがいつだって喜劇なんだ」そんな台詞どこかで読んだことあったな、ああ、まったくその通りさ―そんなことを思いながら歩き続けているうちに、なにか見覚えのある景色が目に入った、俺は記憶のフォルダを果てしなく漁り、それが小学生の終わりか、中学生の始めのころに訪れた場所であることを思い出した、そう、確かにそこには来たことがあった、男二人、女二人―べつに、色気のある話じゃない、そのときたまたま暇を持て余していた連中で、あてもなくうろついてみただけのことさ…そういやあの時も帰り道に迷って、近くに一軒だけあった商店のおばさんに車で街まで送ってもらったんだっけな、夜中になってさ、うちに帰ってからえらく叱られた…確かにそんなことがあった―あの商店についてはのちに潰れたと聞いた、一緒に道に迷った女の子の一人が、数年後に訪れたときにはもう閉めていて、入口を塞ぐように自動販売機が並んでいたって―販売機―俺はその店を探すことにした、送ってもらうためにではない、喉が酷く乾いていたからだ…そこから遠くないことは覚えていた、小さな寺の角を曲がって…そう、そこにあった、記憶にあるよりもずっと古びて、今にも崩れそうだった、もっとも、あのときだって薄暗がりの中で見ただけだから…小銭を鳴らして水のボトルを買い、割れた石の車止めに腰を下ろした、程なく飲み干した時、そう広くない道の向こうでこちらを眺めている老女に気づいた、俺が会釈すると彼女も返してきた、それから彼女は道を渡り、近付いてきた
「こんにちは」「ああ、こんにちは」
銀色の髪の、小柄な人だった、物腰は柔らかく、綺麗な身なりをしていたが、なにかが非常に散漫になっている印象を受けた、お散歩ですか、と彼女はそんな俺の目を覗くみたいにかがみこんでそう聞いた
「ええ、少し歩き過ぎました」
判ります、と言うようににっこりと笑って、彼女は俺の隣の車止めに腰を下ろした、そして、自分の履いているスニーカーのつま先を糸をねじるように撫でながら、少しの間何も言わなかった、それから、思い出したように顔を上げ、後ろの建物を指さした
「わたし、ここでお店していたんですのよ」
そうですか、と俺は答えた、彼女は嬉しそうに頷いて、話を続けた
「昔はこの辺りもたくさん人が居て…わたし、人と話すのが好きなもんだから、それはもう毎日楽しかったのだけど…でもね、ある時から年々人が減っていって、誰も居なくなってしまって、もう開けていても誰ともお話出来ないみたいな、そんなことになってしまって」
つまらないから閉めたんです、と彼女は虫を殺すみたいに手をひとつ大きく打った
「なにかを売るだけだったら機械にだって出来ますもの」
俺は頷いた、彼女はにこにこと笑った、それからまたつま先に視線を戻した
「街に戻りたいんだけど」と俺は言ってみた、「それなら」と彼女は道の先を指さした
「もう少し歩くとバス停がありますよ、日に何本もないんだけど…ちょうど午後の便がくるころよ」
わたしが送ってあげられればいいのだけど、と、彼女は困ったように笑いながら付け足した
「もう、車に乗れなくなってしまって」
俺は何と答えるべきか判らず、彼女と同じような顔をして頷いた、ふふふ、と彼女は笑って、もう行ったほうがいいですよ、とおどけて追い立てる真似をした
「あとは夜になってから一本だけだから」
俺は礼を言って、そこをあとにした、本当にあっという間にバスが来て、滑り込みで乗ることが出来た、窓からさっきの店を眺めたが、彼女の姿はもうなかった


そうして俺は、すんなりと街へ帰ることが出来た、シャワーを浴び、食事をして、音楽を聴きながら椅子で少し眠った、それはそれで終わったことのはずだった




でも、なぜだろう、あの車止めの上に、たくさんのものを忘れてきたような気がしているのは―。


自由詩 おだやかな道にとどまろうとしたって Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-02-26 23:58:42
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