うつろな姫
ただのみきや
そのころ
あなたは在って
あなたは無く
茫漠と
靄につつまれて
あなたは
生への渇望と死への誘いが拮抗する最中
やわらかな被膜すらまだなく
渦巻く闇の限りない張力と
己が中心へと落下する引力に
引き裂かれ
広大なうつろ
曇天の空を
迷い鳥となって彷徨いながら
鳴き交わす相手を探していた
絶えず猟師たちの銃は成層圏から
生業ではなく快楽のために鉛の毒を浴びせかける
コンプレックスと
幼児的嗜虐性
膿んで腫れ上がった顔を
多数派の手ぬぐいの頬っ被りで隠す
ごくありふれた
少年少女たちが
弱者の手足を千切っていた
やがて朧な紙の翼は燃え尽きた
イカロスのように螺旋を描くこともなく
あなたは闇の底を震えながら這い回る
虫へと変貌した
羽化することのない侵食された蛹
青白く発光しながら
息も絶え絶え言葉未満
の なにかが 発酵し
生理的衝動と直結しながら
方角の定まらない感情
の 呟く ような
呻く ような
微小な破裂 音はただ
あなたの中に堆積した
終わらない砂時計のように
だがやがて時は訪れ
新月のように闇は裂けた
昼の日と夜の灯の細波
闇の胎から海が溢れた日のように
あなたは街へ生まれ出た
蛇のように手足もなかったが
すぐに人の姿をとることができた
あなたは形を得なかったから
あなたのたましいは
濃い雲と薄い雲が重なりうねる空のうつろ
霧立ち込めてもどよめきを隠せない海のうつろ
囁くものたちがいたるところに潜む森のうつろ
見えざる器の
あるい神の御手の中で
撹拌され 巡り続け
いくつもの乱反射を内に宿す
小さな宇宙だったから
狭い蛹の殻に閉ざされて
想像の数だけ
なにものにでもなれたから
うつろだからこそ鳴り響く
かよわい肉の楽器だったから
絵に描いた理想とドラッグが自由の徒花だった
あの先の時代を冷笑するような
清水も汚水もカラフルに混じり合った
煌びやかなフェイクを純粋に娯楽として愛せた時代
あなたは風に運ばれる蝶だったろうか
艶な姿をいくつも残像のように重ねて
人々には夢のように見えただろう
けれどあなた自身はいつも血肉を絞るように
禁欲的であり貪欲であり
ひとりの女の姿をした
この世に一匹しか存在しない孤独な獣のように
向こう岸も見えない大河を渡ろうと
自ら流れに飛び込んだのだ
流れる血の匂いに引き寄せられ
自らの腐ったはらわたに気がつかない魚たちが
あなたの足を引っ張った
死の深み寸前まで
そこにはいつも選択
責めたてる者と誘う者が交互に戸を叩き
明滅する蛍光灯の残酷な白さより
漆黒の扉がどれほど優しげに見えただろう
いったい幾つの人格化した理不尽が
最初は親しい友のような顔で近づいては
幼いころからの苦痛の記憶
幾重も固く巻いて結んだ作り物の果実を
不意に千枚通しで貫いたことだろうか
芯まで一刺し毒嚢は爆ぜ
悪夢の種は目覚め発芽する
相対化して
一般化して
客観視してそれでも尚
どす黒い血がヒタヒタと咽ぶ赤子を浸して往く
華奢な細工物が苦い酸の中で悲鳴を上げて消失する
水鏡に映った十字架を掴もうとして沈む修道女の
裏返っても蒼白なままの花弁を誰が見たのか
たとえ紅い蜥蜴がその肌を迸ろうとも
熱い血が文字の様相を呈したとしても
憎しみへと凝固することでようやくそれは
一時あなたを離れて往った
年月を経てあなたは
旧家に置かれた楽器の色味を帯びながら
飢えた若い獣の声で叫ぶのだ
その母音の響きこそ
何度もクシャクシャにされて捨てられては
また拾い上げ広げられたもの
自らの存在の表記として言葉に焦がれながら
いつまでも言葉を纏えずに
閃いては
消えて往く
歌の呻きであり
わたしに刻んだ傷
これこそが形見
あなたは生きているが
あなたとわたしは生と死が分かつほど
遠いものだから
いま
あなたはたぶん在って
それは
素焼きの薄い壺のよう
なだらかな曲線で形作られ
目を凝らすと
文様が痛々しくも美しい
いまも本当は
あなたは在って
あなたは無く
うつろなままのたましいが
降り注ぐ 石ころや
土埃を外へ 外へと押し上げて
層をなし固まったものが
あなただと認識されているけれど
それはあなたの人生であってあなたではなく
あなたはいまも
蛹の中で夢を見て
羽化することもなく
あらゆるものに変身する
いつまでもあなたはたぶん
うつろなまま
普通人として
常識人として
人生を上手く着こなし 着くずし
生真面目に誰かを想いやりながら
歌い続けている 貪欲に
満ちることのないものを満たそうと
変わらぬ意思を保ったままで
《うつろな姫:2018年2月3日》