たわしアーキタイプ
若原光彦
惣菜売場に、大量のたわしが売られていた。欲しいぶんだけ各自で容器に取り、レジへ持っていくと、個数に応じた値段が求められる。それらはじゃがいもを茹で、潰し、丸め、ころもを着けて、油で揚げたものであって、それはたわしではない。たわしは食べ物ではない。あれはたわしではない。あれは、ではどうして、手書きポップにもレシートにもたわしと書かれていたのか。
帰宅し、メモ用紙に、たわし、と書いてみた。平仮名で書き、その下に片仮名で書いた。さらにその下に、レシートにある印字を、図案を模写するように、きっかりと書き写してみた。それらを上から順に、声に出し読んでみる。たわし。たわし。たわし。なぜこれでたわしと読めるのか。私にはわからない。
風呂場へ向かい、我が家のたわしを手に取った。そうこれがたわしだ。いわゆるたわし、本寸法のたわしである。ものを洗う際にこすりつけて使う。なぜ。こんなもので板をこすれば細かな傷がつくし、布をこすれば繊維を痛めるに決まっている。ではこれは、なんだ。
風呂場の鏡を一瞬、巨大なたわしが横切った気がした。こわごわ覗くと、当たり前だが私が映っていて、私の頭をたわしが覆っていた。違う。これはたわしではない。もちろん食べ物でもない。これは人の頭から伸びている、毛、そう毛の集まりなのであって、洗い物に使う道具ではない。じゃがいもの茹でて丸めて揚げたものや、頭の毛の集まりは、たわしではない、が、人はそれをたわしと呼ぶ。いつから。どうして。
居間に行きテレビをつけた。いろいろな人物が画面に映る。その頭にあるものは、やはりたわしである。あれらをなんと言うかと人に訊けば、たわしだと言うだろうし、私もそう言うだろう。あれはたわしではないのにか。
そうだ辞書だ、と思い立った。辞書に手がかりがあるだろう。棚から取り出し、ページをめくる。たりき、なあに、たわわ、たわみ、あった。たわし。名詞。たわしのこと。
和英辞書ならどうだ。たわ。た、わ。あった、たわし。ティーエイ・ダブリュエイ・エスエイチアイ。tawashi。確かにたわしは、たわしなのであって、ほかに言い様はない。確かめるまでもない。
ふと自分は、一体なにを、なんの役にも立たないことでせいているのだろうかと、無惨な気持ちが襲ってきた。たわしに疑義を唱えているのは世界中で私ひとりだろう。こんなことは誰も考えても望んでもいやしない。たわしと呼ばれるものがたわしと呼ばれていて、それでなんの不都合がある。たわしはたわしでいいではないか。
そんな筈はない! 遠い未来か別の宇宙か、きっとどこかにこの話の通じる世界がある筈だ! そこではたわしとたわしでないものが明確に区別され、そのことでたわしもたわしとしての尊厳を大切にされ、人はたわしに限らず多くの物事をより賢明に捉え敬っている筈だ!
だがもしそんな世界があったとしても。そこでも私は別のなにかにいきり立っているだけではないのか。別のなにかに。