サヨナライオン
やまうちあつし
わたしもそれなりに
大きな別れを経験したことがあるけれど
それらすべてに共通しているのは
ライオンがいた、ということだ
動物園が舞台であるわけでも
たとえ話をしているのでもない
大きな別れが迫っているとき
なぜかわたしの近辺には
たてがみ豊かなライオンが
うろついている
飛びかかりもせず
吠え立てもせず
ふらり、とそこにいる
精悍な表情と引き締まった体に
思わず目を留める
ところがそれは
わたしにしか見えないのか
周囲の人は気にする様子がない
なぜだろう、とは思うけれども
それどころではないので
目下直面しているところのお別れに
身を投じてゆくことになる
わたしの祖父は敬虔なクリスチャンで
八十二歳でこの世を去った
病に冒され余命幾ばくもない頃に
教会の牧師や信者の友人らを病室に呼んで
祈りの会を持つことになった
わたしは思ったものだ
近々訪れる自らの死を
祈りの中にこめるとは
一体どういう心持ちなのだろう、と
人生最初の十日間の記憶は誰も持たないけれど
人生最期の十日間は場合によっては体験しうる
(けれどもそれが何になる?)
クリスチャンでないわたしは
病室の前の椅子に座って
部屋に入ってゆく人たちの様子を
興味深く眺めていた
何人かが入室し
祈りが始まると思われたその時だ
閉じようとするドアの隙間を
するり、とすり抜け
ライオンが部屋に入ってゆく
またか、とわたしは思う
どうしてわたしがサヨナラを言う時に
決まってこのライオンは姿を現すのか
会が終わり
参列者が帰った後の病室を覗くと
祖父が横たわるベッドの下
ライオンは静かに
けれども威厳に満ちた面持ちで
横たわっていた
どこかさっぱりとした表情の祖父に
ベッドの下に潜んだ猛獣について
尋ねてみるような野暮はしたくなかった
その息遣いを感じながら
祖父が眠りにつくのをいつまでも
眺めていたかった
わたしが仕事についてから間もなく
とても大きな地震が起こった
多くのものが消え去った
そのうちのほとんどは
別れを告げる暇もなく
当然のことながら
さしたる理由も知らされないまま
この世から立ち去った
地上は剥き出しで
原子炉と金庫だけが残されていた
金庫は夜中に誰かが持ち去って行ったが
原子炉は引き取り手がない
内部では炉心熔解が起こり
眠らない物質が沈殿を始めていた
わたしらの内部にもそのような機関が
知らないうちに埋め込まれている
ずいぶん遠くまで
やって来てしまった
笑顔になるのにも限界があった
幸せになるのにも限界があった
どこにいたって圏内だった
眠らない
眠らない
避難所で
火葬場で
病院で
病室で
空っぽの
公園で
眠れない
奇妙な噂を耳にした
とある浜辺に
諸々の瓦礫と共に
ライオンの亡骸が漂着したという
人々は話した
どこかのサファリパークから
逃げ出したものであろうと
いや
ちがう
それはあなたの動物ではない
どうりでさっぱり
姿を見せないわけだ
こんなにもたくさんの
別離が街中に渦巻いて
猛威を振るっているというのに
わたしの中の燃料棒が
熱すぎてたまらないわけだ
わたしはことばをなくす
わたしはまぶたをとじる
わたしはこころをとじる
わたしはわたしをしめる
ねむらない
ねむらない
ねむれない
めざめない
ネクタイで首を絞め
顔色を土気色にする
道半ばの街で
元気を出すにもほどがある
労働時間は増大し
睡眠時間は減少し
体重は重くなり
約束は軽くなる
そんな折
ふるさとのなまりが
消え失せたターミナルで
一つの再会がある
グレーのスーツを着こなして
人混みの中から
二足歩行で現れたその者
昔なじみのライオンが
いやあ
ずいぶん立派になって
驚きのあまり
思わず声をかけてしまった
かつて姿を見ていたときには
話したことなどなかったけれど
わたしたちはしばらく
公園を散歩することにした
歩きながら
わたしは話した
これまで見かけたときのこと
その度の大きなサヨナラのこと
そしてしばらく姿を見なかったので
さきの震災で
死んでしまったと
思っていたこと
ライオンはそれには答えず
静かに口を開いた
低いがよく通る声だった
「あれが純然たる暴力だよ
本当の暴力とは
無条件に
無目的に
そして無尽蔵な力でもって
生き物を襲う
津波は一つの比喩なのだ
一方的に押し寄せて
一方的に巻き上げていく
何千何万ものわからずやたちが
誰もひとしく同じ顔をして
サヨナラになってゆく」
歩きながら公園の奥にある
林の手前までやって来た
タンポポは半分が綿毛に変わり
来るべき旅立ちの準備を
整えつつあるように見えた
「サヨナラというものは
それ以上でも
それ以下でもないものだ
それに伴う一喜一憂は
実はそれほど重要でない
大切なのは
サヨナラの大元に
知らない者との出会いがあり
辿ってゆくと
皆一本の線になる、ということだ」
ライオンは
内ポケットからタバコを取り出し
火をつけた
タバコの箱を覗き見すると
見たことのない銘柄で
どこか遠くのタバコのようだ
「原子力の勉強に行っていたんだ」
タバコの煙を吐き出して
ライオンはいっそう静かな声で言った
「その都では
原子力はあらゆるものを幸せに
変換するすばらしい力で
どんな後悔も隠し事も
悩みも不安も
温かい思い出に
変える技術が実現していた
私はそこでしばらくのあいだ
どうすればその技術を
この国に移植できるかを研究していた
どんなリスクも危険もなしに
皆が諸手を挙げて導入に賛成し
喜んで命を捧げるような
そんな技術の開発を」
そんなことができるのか
質問しようと思ったが
ライオンは何かを
思い出したよう
そろそろ行かなくては、と
立ち上がる
同時に
もう会うこともないだろう、と
「繰り返しになるが
サヨナラ自体に
いいも悪いもない
それは三角でも四角でもなく
丸いものだ
もっと言うなら
それは楕円に近いものだ
中心は一つではなく
両端に二つあり
互いにバランスを取り合っている
バランスを取る力が強ければ強いほど
円周は長くなり
遠くまで二人を
運んでゆくだろう」
ライオンがどのようなお別れを言うのか
わたしは少し楽しみだった
カラスのサヨナラのように真っ黒くも
キリンのサヨナラのように期待しすぎもしないだろう
ましてやわたしのそれのように
隣家にいつのまにか
見知らぬ神が住み着いてしまったかのごとく
銀色に輝くものでもないだろう
ライオンが右手を上げた
西から涼しい風が吹き
タンポポの綿毛が一斉に舞い上がった
ライオンの口元が
四度うごめく
空を見上げれば
信じられないぐらいに
燃えている
天国が
火事
ライオンの姿はなかった
さすが、百獣の王だ