爪の足
あおい満月



爪の泣き声が聴こえて指を見た指は若芽のようにぐにゃぐにゃと揺らいで
私の思考を悩ませた。指の爪には足が生えていた爪の足はとことこと浴槽
を歩いて空間中を旅しはじめた。ごきぶりのように爪の足たちが漂ってい
る。爪の足の足跡は文字になった。しかし私には解読できない。私は床に
ノートを置いてみた。爪の足の文字は意味をなしてきた。それは脈絡のな
い散文詩のようだった。自分が死んでしまって、生んだはずの命さえも奪
われて、その悲しみがはらはらと散る薔薇の花びらになり、私の目を濡ら
した。私は子どもを食べたのだ。その味は生まれたてのチョコレートのよ
うに甘かった。しかし肉の歯ごたえは切なく哀しい音がして、理解した。



父親が私を殴った。何度も何度も。母親は私を罵った。夜が明けるまで。
私は悲しすぎて涙を忘れた。けれど、とても誰かを呼びたかった。ここか
ら連れ出してくれる誰かを。扉を開ける音がして私は目を覚ました。そこ
には、私が待っていた人がやってきた。その人は父親と母親と気軽に話を
し、私の無事を聴いてからテーブルに包み紙を置いて去っていった。私は
あとを追いかけたかったが、父親に肩を掴まれてできなかった。包み紙の
中は数枚の札だった。父親と母親は酒を酌み交わしながら笑っていた。そ
の不気味な声を聴きたくなくて私は耳をふさいでいた。恋しい人は叔父だ
った。叔父は母親の弟だ。私の父親と叔父は仲があまり良くなかったが、
金が絡むと父親は盛んに叔父をほめたたえた。私にはそれが悲しかった。

**

制服に身を包んだ私は、白い手紙を手に校門の前であの人を待っていた。
初恋の彼だった。彼は私がどれほど自分を好きなのかは知らないだろう。
しかし、今日ここでこの手紙を渡さないと一生後悔すると友人に云われた
から、卒業式の今日この日に私は彼を待っている。桜吹雪の中から彼がや
ってくる。しかし彼の傍らには、べつの女子がいた。彼と仲のいい、彼と
同じクラスの女子だ。その女子が私を見つけて彼に指を指して教える。彼
は私に向かってにやりと睨む。それが私にとって世界で一番の悲しみだ。

***

だから私には、爪の足の悲しみがわかる。手に入れては失い続ける誰に
も理解できないであろう悲しみが。浴槽の明かりを消して、暗い水の中
で私は爪の足とともに泣いて泣いた。空間中が悲しみで満ちていく。し
かし私にはそれがとても美しく感じて世界で一番愛おしい時間だった。



自由詩 爪の足 Copyright あおい満月 2017-09-28 15:47:11
notebook Home 戻る  過去 未来