踏まれた絵具の朝
ただのみきや

静寂は ひとしずくの海
見つけたときに失くした
永い 一瞬への気づき
目覚めの夢の面立ちのよう


雨と風のかすみ網
囚われていつまでも
九月はつめたい考えごと


ひとつの確固たる彫像が
存在感だけそのままに
百万倍にも希釈され――


裾から素足が見えた
朝の扮装をして居続ける夜の


愛娘のように纏わる吐息
雨に穿たれ襤褸になり


九月の額で膝を折る
蝶はおぼろに濡れ燃えて
遠くゴルゴタの 光の一刺しが
沈殿して渦巻いた 獣より酸い
人の匂いを沸々と滾らせる


いまだ外殻を保ったまま
圧迫されて微塵の隙間もなく
交じり合えない赤と青を孕み続けていた


殺すことはできても
殺すことをしないまま
鳥が 一羽 空を越えた
その時わたしの独り言に神は口を挟んだ
「それでいいのか 」
「かまいません それで 」

だがすでに鳥は越えてしまった


そうして誰もいない海の上
誰も聞かない轟音と
誰も見ない閃光が
孤独の最中に炸裂した
喜びも悲しみも怒りも
なにもない
清々しい朝の
無垢で無言な眼差しの他は


秋口の暮れ方
夕陽を飲み尽くさんとするあの
混濁の色味ぬかるむ深まりの中で
根こそぎにされて尚熟し火照った泥土から
立ち上る 黒い蚊柱のように
見慣れたものを 見つめては
見飽きて見るに忍びない
そんな哀しみに
良く似た惚けぶりだった


彼女の肖像画は今や動画で
感じるより先に解説があり
考えるより先に多数が示された


こんにちは*世界夫人
わたしも一発のミサイルになって
あなたから遠く遠く
誰も見ていない場所へ
空白だけを抱いて
さようならお義母さん
七十億の細胞が湧き立って
お肌に張りが戻ってますね
子守歌レクイエムを下さいな
バビロンの貴婦人よ
でも知っていて下さい
わたしはしたたかな母殺し
マザーファッカーです
コメツキムシみたいに
死んだふりしてとびかかります


濡れそぼつ小雀たちの
ふるえる心音を
聞いているかのように目を瞑り
乳房を探していたのか


固く折り畳まれたままで蝕まれ
開いても開いても広げ切れずに
見つけられない 場所が ふと
蘇るような雨の 九月の 嗅覚


うっすらと燃えて咲くコスモスの水盤に
黒々とカオスは翅を休め
そのまま死んだ 沈黙の玉飾り


豊かすぎる貧者は夢の中で散る
抉り出した正気を眼球のように箱に仕舞って




           《踏まれた絵具の朝:2017年9月16日》



「*世界夫人」はヘルマン・ヘッセ作、植村敏夫訳
「さようなら世界夫人よ」から借りました。


     









自由詩 踏まれた絵具の朝 Copyright ただのみきや 2017-09-16 15:41:11
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