新説アリとキリギリス
本田憲嵩

とあるあついなつのキセツのこと、キリギリスはなつじゅうバイオリンをひいてうたをうたいながらすきにいきていました。さとさきのことをかんがえずに、まさにじんせいのなつをおうかしていました。いっぽうアリはせっせとはたらいてすくないきゅうりょうをせっせとかせぎ、ねんきんをはらい、しょうらいのふゆにむけてのじゅんびをしていました。ほかのアリたちなんにんかカロウシしたり、せいしんをやんだりしてしまいました。それにもかかわらずそのアリは、しょうらいかならずみとおしがよくなることをしんじて、はたらきつづけていたのです。けれどもアリはいくらせっせとはたらいても、たべものはあんまりえられずビチクするたくわえもほとんどありませんでした。やがてふゆになってキリギリスがきました。ヒンシのじぶんにたべものをわけてほしいというのです。とうぜんアリは、なつじゅうなまけていたキリギリスを、つめたくあしらっておいかえしました。けれどもアリは、じつはたべものをわけあたえるほどのたくわえもココロのよゆうもなく、ヒンシのじょうたいでやっとでくらしていたのです。ねんきんもまさにスズメのなみだのほどのごくわずかなガクでした。アリはいま、ストーブをつかうためのねんりょうのない(せいかくにはとうゆだいをはらえなくてつかえない)、さむざむとしたスのなかでびょうしょうにつくのでした。アリは、コクミンホケンにかにゅうしていなかったので、ビョウインにもまんぞくにいけなかったのです。アリは、そのよわったカラダでせきこみながらはげしくこうかいするのです。「ああ、どうせこんなにびんぼうでビョウキになるのなら、なにもあんなにいっしょうけんめいはたらかなくてもよかった」、と。「もっと、キリギリスのようにじぶんのヨッキュウのままに、すきにいきていけばよかった」、と。でも、とうぜんキリギリスだってこのさむさのなかでトウシしているのですがね。にっちもさっちもいきません。



自由詩 新説アリとキリギリス Copyright 本田憲嵩 2017-08-26 19:25:53
notebook Home 戻る