遠い世界の夜
ホロウ・シカエルボク



時間は腐るほどあった、床に俯せになったままピクリとも動かなくなったそいつの美しい頭髪をひと掴み右手に巻き付けて力を込めてゆっくりと引っ張ると、やがて強情な雑草が抜けるみたいにごっそりと取れた、毛根には血が滲んでいて、そいつが引き抜かれた頭皮からも幾筋かの血が流れていた、(まだ血が出るのだな)と俺は思った、もう人でなくなってから随分と時間が経っているのに、まるでまだ蘇生を目論んでいるかのように血が通っているのだ、俺は鼻で笑い飛ばした、お前はもう生き返ることなどない、こうして次第に腐敗していくのだ、そう、時間は「腐るほどある」、つい先週どこだかの浜で丁寧に焼いてきた小麦色の肌を眺める、爪を立てて引っ掻いてみると鮮やかに痕が残る、そしてまた血が滲む、なんだか楽しくなって一時間ばかり引っ掻き続けてしまったのだ、おかげでお前の身体はどこかの茨の藪を潜り抜けてきたかのように擦り傷だらけになってしまった、そのうちのいくつか、ひときわ力を込めたあたりからは赤黒い血がどくどくと流れている、ゴキゲンだ、毛髪を両手で掴んで頭を持ち上げ、手を放す、ごとり、という、ボーリングの球を落としたような音があたりに反響する、ははは、と俺は声に出して笑う、もう一度同じように持ち上げて落とす、ごとり、と音がする、俺は爆笑する、ゴキゲンだ、本当にゴキゲンだ…十五回目にそうした時に鼻骨がいかれたらしい、床に突っ伏した顔面から物凄い血が流れる、俺は頭を床に押さえつけてモップのように血溜まりの中を右へ左へとスライドさせる、そうするほどに血の量は増えていく、床に垂れた髪の毛はぐっしょりと濡れてアヴリル・ラヴィーンのような色になっている、手を離し、足の裏で頭を蹴っ飛ばす、ゴスン、ゴスンと酷い音がして頭がグラグラと揺れる、フローリングで肌が引っかかって鈍い摩擦音がする、アハァ、なんて忌々しい音だ!立ち上がって後頭部を踏んづける、こんなものは潰してしまうに限る、ゴスン、ゴスンと物凄い音がする、階下の部屋は開いている、右隣の部屋は明け方まで帰っては来ない、左隣は壁だ…誰に気を使うこともない、数十回はそうしただろうか?やがて瓶が割れるような音がして踵が後頭部にめり込む、崩壊した頭蓋から脳漿が溢れ出てくる、まるで怪しげな花弁がゆっくりと開くように、足を引き抜くと足から血が流れている、始めは脳味噌がこびりついたのだと思ったが、激しい痛みがそれを間違いだと教える、足を引きずりながら薬箱を探し、血を丁寧に拭いて消毒液を吹きかけ、薬を塗りこむ、上から絆創膏を貼るともうほとんど気にならない、もう一枚絆創膏を手に取り、包装を剥いで、崩落した後頭部に乗せてひとしきり笑った、腕を引きずってシャワールームへと連れて行く、ナメクジの軌跡のように脳漿が垂れ落ちていく、服を剥いで洗濯籠に放り込む、ウンザリするくらい重い、だけど、これまで味わってきたウンザリに比べれば、これくらいは…シャワールームにやっとのことで引きずり込むと、自分の服も脱いで洗濯籠に入れる、排水口の邪魔な蓋を取って、一息に流す、シャワーを間近で当てると頭蓋骨の中はほぼ空になる、「花でも生けようか?」軽口を叩いたが誰も笑わなかった、笑うという行為は大切だよな、と俺は思う、だけど俺自身も笑う気分にはちょっとなれなかった、相棒をそのまま浴槽に突っ込んで自分の身体を洗う、なんかで石灰を使うと良いって読んだな、具体的にどういうものだったか忘れたけれど…あれは埋めるんだったかな…シャワールームを出て身体を拭く、歯を磨いて寝床に横になる、疲れていたせいかすぐに眠りに落ちた、相棒の中身を全部繰り抜いて巨大な鍋で煮込み、筋肉に防腐処理を施してそれから、叩いて柔らかくしたあとで硬くならない薬を注入し、着ぐるみに仕立て、それを着て街を歩く夢を見た、目が覚めてから最初に思ったことは、あれはきっと物凄く暑いだろうなということだった、そんな想像がおかしくて泣いた、嗚咽するほどに泣いた、そうすると朝が嫌になった、なんでこんな気分を味合わなきゃいけないんだ―?銃が無くて良かった、と思った、もしここにそれがあったなら、迷わずこめかみを撃ち抜いただろうから…なぜだろうか、まだこの生を惜しいと思っていた、これ以上こんなものにしがみつく理由がどこにあるのか、もう明日などないぞ?起き上がって顔を洗い、朝食を食った、すぐに全部吐いた、洗面所で一時間近くうがいをした、内臓が腐って胃袋に溜まっている気がした、ああ、と声を吐いた、インスタントコーヒーを入れて飲んだ、それは吐かなかった、一日は砕けた後頭部のようにがら空きだった、しなければならないことはおそらく想像以上にあったが、なにもやりたい気持ちにならなかった、夢の方がずっとメリハリがあってリアルだった、食卓の椅子に座って窓の外を見ている間に午後になっていた、ノコギリを探した、住処のなかにはなかった、そういえばそんなものを使ったことなんてない…買いに行こうと思った、服を着替えて、姿見でチェックした、ちゃんとした服装なのかどうかどうしても判らなかった、必要なものをポケットに入れ、部屋を出て鍵を閉めた、エレベーターで一回まで降りてエントランスに出、部屋の窓を見上げた時、(もうここに帰ってこなければいいのだ)という考えが頭に浮かんだ、それなら、のこぎりを買う必要もない―タクシーを拾って、空港に向かった、一番早いフライトの切符を買って、たどり着いたのは寒いところだった、そこから自転車を盗んで一日中走った、夜がとっぷりと暮れた頃に、海沿いの小さな町に着いた。海岸に自転車を捨てて、宿を探した。四階建てのビジネスホテルを見つけ、出鱈目な名前と住所でチェックインした、鍵を受け取って部屋に入ると、そこには居ないはずのものが居て、「お帰り」と俺を出迎えた。



自由詩 遠い世界の夜 Copyright ホロウ・シカエルボク 2017-07-28 21:52:13
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