誰も知らない
涙(ルイ)

今日 ひとりの男が電車に飛び込んで死んだ
理由は誰も知らない
朝のラッシュ時だった 駅は通勤客でごったがえしていた
アナウンスが流れる 
「○○駅にて人身事故のため 電車大幅に遅れています」
人々は口々に云う
「この忙しい時間に」「死ぬなら他でやればいい」と


男はとある出版会社に勤めていた
毎日が残業の日々だった
月300時間を超えることもザラだった
上司に窮状を訴えたところで
俺たちの時代は 残業なんてまだマシなほうで
徹夜なんてこともよくあったな などと
云われるだけならまだしも
仕事もできないくせに生意気云うな と
いらぬ説教をされるのが関の山だった
増え続ける書類の山 処理仕切れる仕切れないは問題ではない
仕事ができないと思われたくなくて ただ一心に仕事しただけだった
誰よりも遅くまで残って仕事した
毎日終電間際だった
深夜部屋に帰るともう何もしたくなくて
倒れるようにベッドにへたりこんだ
疲れているのに あの書類の山に埋もれて
窒息する夢を何度も見る
だからうまく眠れない
朝5時半 無情の目覚まし
今日も長い一日が始まる
このまま会社行きたくないな
でも行かなかったら 即クビにされるだけだし
睡眠不足と疲れからうまく頭が働かないまま着替えて部屋を出た
だけどどうにも足が重い
月300時間の残業はサービス残業で
もちろん残業代なんて出してはもらえない
一体なんのために働いているのだろう
仕事を替えればいいだろうと他人は簡単に口にする
一体 いつ新しい仕事を探しに行けっていうんだ
駅のホーム ごった返す人ゴミの中
もうこの中にはいられない
どうすれば今日 会社へ行かなくて済むだろう
そう思っているうちに 自然に足が前に向いていた
もうこれで楽になれる


通勤時間帯の事故 誰もが忙しなさそうに
電車遅延のアナウンスに舌打ちしている
たった今 人がひとり死んだことなんてどうでもよく
それよりも私たちは 朝の会議に間に合うかどうかの方を気にしてしまう
テレビの前で失われた多数の犠牲者には手を合わせても
この電車を止めた自殺者はただの迷惑な存在でしかないのか
命は尊いものだと 教わってきたはずじゃなかったのか


人ひとりの命にどれだけの価値があるんだろうか
身近な人じゃなくても
見ず知らずの誰かでも
その人を大事に思っている人がいて
その人を愛してやまない人がいて
その人がいてくれないと困る人がいて
だったら、身近だろうが他人だろうが
その価値は変わらないはずなのに
男は会社の駒としてこき使われ
社会の犠牲になって死んだ
これは全部想像だ 今日電車に飛び込んだ男についての
その男は もしかしたら自分だったかもしれないのに
いま舌打ちした人間は 私も含めて
弱者を踏んづけて 平気な顔していられる人間だ
そんなふうになりたくなかった
そんな自分ではいたくなかった


今日 ひとりの男が電車に飛び込んで死んだ
理由は誰も知らない




自由詩 誰も知らない Copyright 涙(ルイ) 2017-05-31 22:20:02
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