足跡に名札がついたことはない
ホロウ・シカエルボク
通り過ぎてゆく連中の靴はどれも洗いたてみたいに艶めいていて、おれは自分の薄汚れたスニーカーを見下ろしてほくそ笑む。それはおれとやつらの「歩行」という行為に関する決定的な認識差であり、歩いてきた距離の違いなのだ。やつらはまるで歩いたことなんかないみたいな顔をしている、そしてそれはたいていの場合本当にそうなのだ。交通ルールと運転技術を学んで免許を交付してもらい、信号や渋滞で足止めをくらいながら膝が退化してゆくのを誇りに感じているのだ。おれはかれらを横目で見ながら一歩ずつの感触を確かめてきた。それは確かに有意義なことだったし、かれらが見落としてしまうほとんどのものを目に留めることが出来た。かれらは当然ずっと早く目的地のようなものに到達しておれのことを嘲笑っていたが、おれはなにも知らずに距離だけを進めることなどに興味はなかったのだ。おれはひと足ごとに感じていた、額に汗が滲むことを、疲弊した肉体が腹を減らして鳴くことを。靴底を受け止める大地の確かさを。そこにはわざわざ書き綴ることのない詩情があった。わざわざ掻き鳴らす必要のない音楽があった。だからこそおれは書いたのだ、弱い目を見開いて、指が凝固して痙攣を始めるまで。だからこそおれは歌ったのだ、咽喉が擦れて耳障りな音を立てるまで。要らないと判っているからこそ、そうして続けてきた。汗まみれになって、目をしばたかせながら。それはおれという人間を調律するためのものだった、そして、おれが踏みしめてきたものをどのように理解しているか、口にしてきたものをどのように消化し、排泄してきたのかという確認のようなものだった。そうして自分自身のための長い長い名刺を作ることで、おれは自分の人生を出来うる限り分解して組み直したのだ。別にそれで過去が塗り替えられるわけではなかったし、記憶や認識になんらかの影響があるわけではなかった。だがいいか、パーソナルコンピューターだってコマンドがない状態でも動作し続けている、パーソナルコンピューターという物質として生き続けるために。おれも、おれという人間として生き続けるためにそうしてハードディスクを回転させ続けているのだ、おそらくはコンピューターのそれよりも、ずっと複雑なシンプルさを求めて…ヒトの言語は数式の配列ではない、それは強いていうなら感情の化石の陳列だ、ガラスすらない陳列棚の上に、ろくな分類もされないまま捨て置かれてゆく。名前もなく、名札もない。ライトアップされることもなく、一般公開されることもない。そこにそんなものが陳列されていることなんて誰も知らない。おれだってそのすべてのことは判らない。ただ反射的な年表のようにそこにあるだけだ。特に手を入れられることもないけれど、それは朽ちることがなく、色褪せることすらない。ただそこにあることを忘れられてしまうだけだ。誰もが時折自分自身のことすら忘れてしまうように。だからおれは薄汚れたスニーカーに足を突っ込んで歩き続ける。それはここにある、それはここで並べられていると、声ならぬ声が囁くのを聞き逃すことのないように。