アンダーグラウンドの指先
ホロウ・シカエルボク
凍てついた死体と古ぼけたペーパーバッグだけが転がっていたコンクリートのままの床の上で音楽が流れている、奇妙なインストルメンタルで旋律らしい旋律もそこには見当たらない…インプロビゼーション的なそれはだけど、最後の冬を呼び戻した二月の終わりには不思議なほどよく似合っていて、指の瘡蓋に噛みついて毟り取りながら、だけどこびりついているはずの血液の味はほとんど感じられなかった、俺はホルマリン漬けの奇形種のように窓と床の間の空間に潜り込んでいた、渇きを覚えていたがそれは、ミネラルウォーターではどうにもならない種類のものだった、指に空いた穴からあらゆる亀裂が心臓に至るまで広がっているみたいな感覚にとらわれていたが、それで身体が古くなったセメントみたいにボロボロと崩れ落ちようと別にかまいはしなかった、二月は空洞であり、この日は空洞であり、この午後もまた空洞であり、俺はそこに置きざられた異物だった、それは俺のもっとも正しい在り方のひとつに違いなかった、だからそうして窓と床の間に潜り込んで―じっとしていた、音楽のことはほとんど気にしてはいなかった、必要なものではない、必要なものではないからこそ選んでしまうのだ、人生や運命が、無条件に意味を約束されたものであるかのように言い始めたのはいったい誰だ?そんな命題を妄信してしまうことは、首吊りの縄に自ら首を差し入れることと大差ないことだ、時間や、行動や、思考の大半は無意味に過ぎてしまうものだ、それは日常的に認識出来る物事のはずじゃないか―?西日に変わり始めた太陽が鋭角的に差し込んで空気中の埃を照らし出す、俺は煙草を吹かすようにそいつに息を吹きかける、そいつらは一度はさあっと散ってしまうもののまたすぐに新しい流れを産み落とす、小さく、軽くなるほどに規律は単純になる、俺は砂漠になったのか?景色から身を隠しながらうずくまっているとそんな幻覚に囚われてしまう…俺は歌のない音楽の中に適当にメロディをつけ、鼻歌をうたう、それはどんな世界も揺さぶることはない、俺がそれを信じていないからだ―いつか、そう、ノートに文字を詰め込み始めたころ、それは生きることだと思っていた、自分という人間を明らかにし、解剖し、美しい臓器を選んでばら撒いて見せるようなものだと―だけどそれは本当はそうではなかった、そんな確信は間違いだったのだ、何故なら俺は、解答のあるものを選択したわけではなかったのだから…追い求めれば解答があり、次のステップへと移動するといったような、そんなものを選択したわけではなかったからだ、俺はいつからか解答を信じなくなった、あるのかないのか判らないお宝のようなものだ、掘り進めれば掘り進めるほど、そこには大した意味のない何かが果てしなく詰め込まれていることに気づく、どういうことだか判るか?それは描き込んでも描き込んでも翌日にはもとの白に戻ってしまう画用紙のようなものだ、つまりそこにある事実は、「もう一度書かなければならない」という細やかな強迫観念に過ぎない…そんなものをあれこれと掘り下げることなど、無駄なのだ、そこに確信などないことが判っているからこそ、人は落ちている本を拾い上げてページをめくるのだ…考えに耽っている間に日は沈もうとしていた、もう目の前に漂っている埃など見えなかった、薄暗がりになった内壁が、窓の外の何かを反射して奇妙な模様を描き出しているだけだった、日が暮れることは夜が明けることだ、ペーパーバッグはもう読みつくしてしまった、それにはやはり同じことばかりが書いてあった、人はテーマなど持ち合わせてはいない、虚ろな空間に放り出されて、果てしない空白を埋めようと発しているだけだ、夜が訪れた!俺はアンテナとなり、闇の中で信号を受信する、俺の信号経路を駆け巡るそいつらは、俺がどんな形をしているのかを教えてくれる、蹲ったままでしばらく眠り込んでいた、路面電車の振動が俺を目覚めさせ、俺は歯を磨いて明日からの準備をする、演じる覚悟を固めた道化にはなれないし、といって疎かにしようとも思わない、なにを知っていたのか、なにを見てきたのか、記憶の中を引っ掻き回してみてもいくつかのピースが見つかっただけだった、俺はそれをゴミ箱に捨てた、もうそれは俺のものではない、音楽は流れ続けている、俺は夜の始まりを見ていながら、だけどそこに詩情などを求めたりはしない、それだけは、ペーパーバッグのように床に転がっていたりはしないのだ…。