希望について
カワグチタケシ
深夜2時、数枚の年賀状を投函するために郵便ポストまで歩いていった。約300メートルのアスファルトの舗道。見上げると真黒に晴れた夜空に冬の星座が輝いている。今年もあとわずかで終わる。年が明ければすぐに、観覧車の足元に水仙の花が咲く季節がまた巡ってくる。
私は観覧車の運転手。専門職といってもいいだろう。キャリアは10年。都内にある私立大学の法学部を出て地方公務員になった。決められた時間、区役所の窓口業務を淡々と正確にこなし、平日の夜と週末は小説を書いて新人賞に応募する。そんな暮らしを思い描いていた。しかし最初の配属は区立公園の管理事務所だった。
河口をはさんで国際空港の対岸にある埋立地の広大な敷地にはサッカー場とテニスコートが8面、スケートボードランプ、芝生の広場とバーベキュー場、防砂林、そして観覧車がある。
配属されて最初の半年間は複数の持ち場をローテーションして基礎的な動作を身につける。6つ目の担当が観覧車で、結局そのまま10年が経った。
観覧車の運転はきわめてシンプルだ。スタートとストップをひとつのハンドルで操作する。一周15分。難しいことはなにもない。
午前9時に出勤し、午前9時半、客を乗せる前に2周、ゴンドラを回転させる。最初は無人で、2度目は運転手を乗せて。点検のための空運転はなによりも耳を澄ますことが重要だ。軋みや異音がないか。15分間集中して聴覚を研ぎ澄ます。雨や風に機械音がかき消される朝は、支柱に耳をつけて観覧車の声を聴く。仕事を教えてくれた前任者は医療用の聴診器を使っていたが、私は冷たい支柱に直接耳たぶをつけるのが好きだ。
2周目はゴンドラの中から、地表近くでは聴きとりにくい、高い位置の音に耳を澄ます。機械油が減っていないか、ボルトに適度な弛みがあるか、慣れてくるといろいろなことがわかるようになる。最初の数回同乗した先輩には、視野の小さな変化にも集中するように言われた。
朝の点検乗車を始めて2週間が経ったころその意味が分かった。観覧車の頂点から見下ろした防砂林にいつもの朝とは違う不穏な変化を感じたのだ。
はじめそれは違和感のある小さな色彩だった。目を凝らすうちに、次第に人間のかたちをとり、やがてその足が地に着いてないことを知る。それは防砂林の松の木で首を吊った遺体だった。ゴンドラが地上に着くまでの7分半。私はその事実をひとりで抱え込まなければならなかった。
ゴンドラが最下点まで到達するかしないかのうち、ドアを内側から強く何度もノックした。ゴンドラの扉は安全のため内側からは開かない仕組みになっている。ようやく開けてもらったドアから飛び出したが、息を切らした私の報告を聞いた所長の対応は落ち着いたものだった。
「あの防砂林の樹木をよく観察してみなさい。1.5~2.5メートルの高さの横枝は伐ってあるだろう。それでも死にたいやつは脚立持参で来る」。十数分後、警察と消防がサイレンを鳴らさずやって来て、遺体を収容して帰った。
そんなことが数か月に一度は起こる。もうすっかり慣れてしまった。公園の名前を検索すると自殺の名所と書いてあるのだ。所長は言う「自殺者には2種類いてな。誰かに死体を見つけてもらいたいやつがうちに来るんだ」。
午前10時から午後7時まで、一定のスピードでゴンドラは回転し続ける。車椅子や杖をついたご老人を乗車させるときにだけ、数十秒間回転を停める。ゴンドラ内に流すBGMもそんなときに乗客を不安にさせないツールのひとつだ(もちろん点検時には流さない)。
古い映画音楽のインストゥルメンタルカバー。たとえば「マイ・フェイバリット・シングス」「ペーパームーン」「追憶」「サウンド・オブ・サイレンス」。なかでも私のお気に入りはビー・ジーズの「メロディ・フェア」、映画『小さな恋のメロディ』の主題歌だ。「人生は雨には似ていない/メリーゴーランドみたいなもの」。人生が雨のように直線的に下降していくだけのものとしか感じられなかったら、人は生きる希望を失ってしまうだろう。希望とは戻れる場所があることだ。
メリーゴーランドもジェットコースターも観覧車も、回転する乗り物はみな、私たちにそのことを教えてくれる。