グラン・ギニョール(ただし観客が皆無の)
ホロウ・シカエルボク



もっとも死臭を放つ頃合いの腐乱死体のような世界にきみは巻き取られて、叫び声も叶わず飲み込まれようとしている、手足の指先は究極に凍えたみたいに上手く力を入れることが出来ず、手に触れるもの、足を下ろすところすべてが覚束なく離れてしまう、飲み込まれたらお終いだ、きみは全身の生命でその予感をキャッチするが、だからといってそこから逃れる力が湧いてくるわけではない…それは濁流の渦となって、きみを逃れられないところまで連れて行こうとする、死ぬことが怖いのではない、死など所詮生の範疇の外だ、「死ぬかもしれない」と思うことがきみは怖いのだ、きみは腕を動かして、もがいて流れの外に出ようとするが、上手くいかない、きみの腕にはべったりと腐敗臭がへばりついている、きみは唇を嚙む、強く噛み過ぎて血が滲む、それがきみに出来る唯一の抵抗だった、窒息の予感、どろりとした、蝋のような空気がきみのまわりで密度を濃くしていく、それはきみをよりいっそう渦の中へと沈めていく、きみの体内のあらゆる隙間に、重苦しいものが流れ込んでくる、それにはどんな味もない、どんな温度もない、どんな刺激もないし、だからといって優しくはない、きみが暴れてもがくほどに、それはきみの体内の奥深くへと流れ込んでいく、だれにも犯されたことのないきみの内臓の奥深くへ―きみはせめてと目を見開くものの、なにも見ることは出来ない、まぶたと眼球のわずかな隙間にも、それは入り込んでくる、もう暗闇しか見ることは出来ない、呼吸が奪われ、視覚が奪われ、聴覚が奪われる、鼓膜が空気の重みに負けて裂ける音が、きみが最後に聞いた音だった、いまのきみは言わば封じられたただの魂だった、どこにも動けなかったし、そんな空間をなかったことにするような力も持ち合わせてはいなかった、ただ封じ込められてそこに漂っているだけだった、それは確かに漂っていると言ってよかった、決して完全に固められては居ないという意味では…これはどんなものなんだ、ぼんやりとした意識の集合体の中で、きみはそう考える、液体のようでもあり、個体のようでもある、ずしりとした質感は確かに液体のようだし、どこにでも入り込んでくる図々しさはまるで気体のようだ、そして、こうしておれを封じているさまはまるで個体のようじゃないか?どうして死んでいない…おれはもうとっくに呼吸を奪われていて、身体中の隙間を塞がれている、どうして死んでいない?思考が生きていればそれは死ではない、こうしてここにおれの意思は存在しているではないか―?おれはそもそもどこに居たのだ、と、きみは考える、きみには場所の記憶がない、そこに巻き込まれるまでどこでなにをしていたのか、まるで思い出すことが出来なかった、瞬間に輪廻転生を果たしたかのようにそれまでのすべてがゼロになっていた、きみが知っているのはただ、きみがきみ自身であるということ以外に他なかった、動けない、ときみは考える、だけどそれは当たり前のことなのだ、きみはすべてを封じられている、だが、ときみはさらに考える、これほどの徹底的な状況においても、おれの思考は奪われなかった、呼吸も出来ない状況の中で、おれはこうして思考している…きみはその世界を自分で創り出したものだと仮定してみた、もの静かな大学生が好んで読むコミックみたいなやつさ、でもそれはきみにとってなんの説得力もなかった、なぜならきみはそんな世界を望んではいないからだ(それは至極当然のことだ、だれもそんなところに飲み込まれることなど望んでなんかいないだろう)ならばそれは少なくとも、きみの意識下のことではない…では潜在意識下のことでならどうだ?君は飲み込まれ、封じられることをどこかで望んでいたのか―?それはよく判らなかった、当たり前だ、理解出来るならそれは潜在意識下のことではない…きみはもうそのことについてはどうでもいいと思うようになった、その原因がどんなものであれ、きみがそこから抜け出せるヒントがそこにあるとは思えなかった、きみはとりあえずこの状況については良しとした、だってそうだろう、こんなことになってはいるけれど、きみはすべて奪われたわけではないのだ、あるいはこれは自然現象のようなもので、たとえば朝の訪れとともに、きみを捕らえているものは霧が晴れるみたいに消えてしまうかもしれない、古典的な死霊のようにさ―きみはやはり思い出そうとした、そうなる前にどんな時間の中に居たのか―だけどそれはやはり思い出すことが出来なかった、待ってみるしかない、きみはそんなふうに考えた、だけどもしも、これが死後すぐの状態であり、きみがすでに肉体を抜け出していたとしたら?そう考えるときみの心はひやりとするものを感じたが、すぐにそれは間違っていると考え直した、確かにいまは魂のように封じられているけれども、本当に肉体を抜け出しているなら自由に移動することくらいは出来そうなものだからだ、少なくともまだ死んではいないだろう、きみはそう結論した―きみは目を閉じる、なにも考えず、どんなものも期待せず、また絶望せず、きみを取り巻く状況が変わることを待ってみるしかない、きみは何も思い出せない、ヒントのように時間を刻む時計の音も聞こえない、なにも手に入らないならどんなものも望まないことしか正解はない。


自由詩 グラン・ギニョール(ただし観客が皆無の) Copyright ホロウ・シカエルボク 2017-01-26 12:04:33
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