はさみ
水菜
「瑠璃子、鋏を取ってくれないか?」
そう言って、祥太郎は、白い、青白く血管が浮き出ている手を差し出した。傷付いたことの無かった筈の滑らかな皮膚が、テラテラと脂汗で光っている。
瑠璃子の視線の先には、裂けてしまった傷口と、白い包帯。
目を背けながら、瑠璃子は滑らかな手触りの銀色の鋏を祥太郎に手渡す。
カタカタと震えながら、案外その様子を冷静に観察している瑠璃子。そんな自分に気づいた瑠璃子は皮肉に思い視線を揺らす。
瑠璃子は、戸惑いながらも外の様子を、落ち着きなく探る。
人の関係は、鋏のようだと、瑠璃子は思う。
鋭く切れる鋏も、錆びついて切れない鋏も。
瑠璃子の中では、それは延長し、つながっていて、一緒くたに瑠璃子に語り掛ける。
錆びついて切れない鋏も、力を入れれば切れることだってー
先程擦り剥いてしまった瑠璃子の薄い手の平をすべらかな地面のコンクリートにはわせた。
ひんやりとしていたそこは、瑠璃子の手の平の温みと同化する。
瑠璃子は、じっと押し黙っている。
祥太郎は、そんな瑠璃子の様子に顔を顰めると、そっと、気付かれないように嘆息した。
「……あのな、瑠璃子」じっと、目を合わせて、祥太郎は瑠璃子に大切なことを言い含めるように、発する言葉を選び選び、伝えようとする。
決して、傷付けようとはしない、そんな祥太郎の性質の優しさを感じ取って、瑠璃子は、強張っていた身体の力を少し抜いた。
祥太郎の困ったような泣きそうな少し怒ったように揺れる焦げ茶色の瞳を見つめる。
そんな瑠璃子の様子を見て、少し息を吐くと、祥太郎は、視線を落として、目線をずらした。
「……大丈夫だったか」
瑠璃子は、ごめんなさい、と小さな声で謝ると、頷いた。
「……怪我したのは……祥太郎で、私は、」
言葉が出ないまま、胸の奥がつきんと痛んで、知らない間に噛み締めていたらしい下唇が破れたらしく、鉄の味がした。
言葉をいくら選んでも選んでも、音にならずに消えていくような気がして、瑠璃子は俯いた。
「……やるなって言っても、お前は、またやるんだろうな」
押し殺したような祥太郎の言葉が左耳に届く。
そのまま沈黙が続く。
……リリ、リ、チリリ……。
……リリ、リリ、チ、リリリ……。
片足が取れたエンマコオロギが、瑠璃子の右手の先の部屋の角の隅におさまって、翅を擦り合わせて音を出そうとしていた。コオロギは、前脚脛節のつけ根に耳を持ち、これで周囲の音を聞き分ける。このコオロギは、片耳が聞こえないのか……。そこまで、思考して、瑠璃子は、唐突に、私と一緒だ……。と思う。祥太郎に止められても私は聞こえないふりをしている。……それは、本当に聞こえていないのかもしれなかった。聞くという感覚、感じ取る器官が、狂っているのかもしれない。耳という道具というより、感じ取る脳という器官が、聞くことを拒否している。
擦って剥けてしまった手の平の皮をじっと見つめながら、瑠璃子は、思い出していた。
りり、コロ、コロ……ピ、チリリ……。
りり、りり……ピ、チ、リ、りリ……。
いつの間にか角の隅に居た筈のエンマコウロギが、近付いて来ているのか、先程よりもずっと近くで、不完全な音がする。
りりりり、……ピ……コロ、……コロコロピ、チリ……。
ぼろぼろと、気付いたら、涙を両目から溢れ出していた。
祥太郎の白すぎる手が、瑠璃子の涙をまるで吸い取っているかのように拭き取っていく。
「……頼りなくて、ごめんな。でも俺、負けないから」
にこり祥太郎は笑う。
赤い海に連れていかれるような気がする。
ぼうっと、コンクリートの壁にもたれかけて、絶対にと念押しをすると、力強く頷いて。
瑠璃子は、頭を振ると、顔を覆った。
「……これ以上は無理よ。私が暴れたから、祥太郎は傷付いたのに」
今日の混乱は、洗面所で。瑠璃子は、いつもの衝動のままに自分を傷付けようとして、結果的に止めようとした祥太郎を傷付けてしまった。
そのまま、この場所へ逃げ込んで来たのだ。……子供の頃からの逃げ場所。打ち捨てられたままの半分だけの教会。
真っ白なコンクリート剥き出しの壁。祭壇。マリア様のステンドグラスが、月明かりに照らされて浮き上がって見えるこの場所に。
ここでは、いつも、自分の二面性が暴き出されるような気がして。
向き合う方の二面性も。
瑠璃子は、無関心の自分と、不安に押しつぶされそうな自分、強気なようで優しくて弱い祥太郎と、弱いようで強い祥太郎をじっと見ていた。