メリーゴーランド
水菜
私は、窓を開けたが、そこから広がる世界を私は、知らない。
何故なら、私は、斜め上に見える私が窓を開けている姿を見ている私だからだ。
下から見上げた私は、非常に透明な床の上にたっており、透けているように見える窓枠から、窓を開け、外を見ようとし、
何かを目にしている。真っ直ぐな視線をそのまま固定して、身動きしようとしない私が、何を見ているのか、その対象のものを、私は、知らない。
私は今、見上げる形で私を見ているのだから、私の感触は、私の元にあるはずであるのだが、しかし、私の手の感触は、今まさに、開けた窓枠に触れている手のひら、触れる窓枠の温かみとざらりとした手触りを感じている。
下から見上げる私の視線と別に、独立して見えてくる私のすごく近しい私の感触は、私を、ひどく安心させる。
私は、私が触れる窓枠の感触と、私が人の温かみを持った肌を持っていることを、唯々確認出来ている事実に安心している。
つまりは、手のひらから繋がる私の上半身が、私に身体から発するわずかな温かみや、血肉の脈動を、心臓の鼓動の震えを、私の身体から発する様々な生きている音を自然に、何気なく聞き取りながら、私は、私の身体が、私の意識と繋がっていることに、安堵している。
しかしながら、私は、もう一つ私を知っている。それは、窓を開ける私を下から見ることが出来る視点で、ある私だ。
はたして私の意識は、二つに分断されている。視点のみの私には、地につく私の足のつちふまずの感触を、私は様々と、感じ取り、意識することが出来る。
私は、分断されているという意識は無いのにも関わらず、私は、大して疑問も感じることなく、私を私だと認識する。
「あれも私であるし、これも私であるのだ」
よちよち歩きの子供が、メリーゴーランドを回ろうとしている。
アイスを落としてしまいそうな少年が、偶然にも、そこに目を奪われた。
子供は、美しい青い目をしていた。
くるくるまわるメリーゴーランドには、作り物の人間が乗っていた。
青い目をしたよちよち歩きの子供は、少年の見間違えに過ぎなかった。
少年は、次の瞬間に、そう認識する。
何故なら、そのよちよち歩きの子供は、瞬間、メリーゴーランドの中の作り物の人間として、メリーゴーランドの馬の上に乗り、くるくると回っていたからだ。
少年は、首を傾げながら、溶けそうになっているアイスを慌てて持ち直した。
暑い日差しが、照りつけた時、その少年は、次の瞬間には、そのような事柄を隅に追いやってしまうだろう。
私は、窓の外を見ているのか、窓の外を見ている私を下から見上げているのか、そんなことにこだわってはいない。
唯々、照りつける日の暑さに目眩が起きているのか、ふらりと揺れる何かを見ていた。