私が、手放せないものについて
水菜

必要か?と考えて、必要ないと決めるでしょう?
決めた途端にそれは、私にとっての価値を失います。
けれど、それは、価値が私にとって無くなっただけで、
私が、それを手放せるかは、別の話です。
価値の無いものに囲まれる生活という現状に身を置いている場合の方も沢山いらっしゃるのだと思います。
それは、その方自身にとって、価値はとても低いけれども、持たなければならないものです。
人は、厳選したものばかり、身の回りには置けないし
価値の無いものを身の回りに置きがちです。
何故そんなことになるのか。
その答えは、明白です。
それに、価値が無いとその方が決めつけ、厳選してこなかったからです。
つまり、自分の必要なものに目を背け、何でも良いと思った結果、
その方は、その方自身にとって価値の無いものに囲まれて生活を送ることになってしまいます。
ここで重要になってくるのは、その方自身が『今』必要としていたのか、
『長い目で』それを必要としたものなのかという違いです。
刹那的な感情で拾い集めたものは、高い確率でその方自身にとっての価値を失いやすいです。
価値は、時間によって作られます。
価値は、育てられるともいう。
人は、自分がその価値を認めたものには、何度でも時間をかけて手入れをし、
育てようとするものだと思います。
結局は、捨てても良いものだということは、
必要なものではないという意味とは別に違う意味も持ちます。
不要であっても置かなければならない価値の無いものとは本質的に意味合いが違います。
手放せるものは、手放せるというだけで、意識的に私にとって必要なものではないと認められたということになります。
高い美意識を持つ方ほど、手放せる方だと私は感じています。
洗練するということは、手放すことであるからです。
厳選するということは手放すことでしか成し得ないものです。
私は、私にとっての理想は、
必要なものに囲まれることです。
人であっても、物であっても、
私が、価値を置くものしか傍に置かないことが理想です。
それが出来る自由も権利も私は、持っているはずです。
そして、同時に気付き思いました。
私が、どうしても手放せなかったもの。
それは、私自身でした。
私は、私の心も、私の身体も、手放せなかった。
だとしたら、私は、私自身も私にとって価値のあるものとして、
長い時間を掛けて慈しみ愛情を持って手入れをしなければならない。
私は、私にとって手放せるものと、
私にとって手放せないものを、
身の回りを見渡してきちんと見つめて、
手放せないものには、
慈しみと愛情を持って尊敬し、長い時間を掛けて手入れをしたい。
自身の物差しではかる豊さや幸せを、
私は、見つめたいと思います。


散文(批評随筆小説等) 私が、手放せないものについて Copyright 水菜 2016-12-17 21:33:23
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