またね!
もっぷ

 タイトルは『浅き日のこと』そして『高野ヨウ』をペンネームとして出版社に持ち込み自分を賭けてみたい小説の原稿と今夜もまた向き合う。『――彼女は「またね!」と言ったはずだし、ぼくだって「さよなら」とは言っていない。それが数日前のことだったのかあるいはつい昨晩の単なる夢か。末期だった(解剖の結果初めてわかった)、なのに医者にもついに行かないままだった、もうこの世では息をすることもない、彼女。痛みに耐えきれなかったのだろう、自ら、この世を諦めて、しかし軌跡はぼくが忘れない。誓って。誰が過去のことだと片づけたとて、ぼくだけは、絶対に。手許に残されたのは、なぜだろう、たった一枚の写真と、そのなかの笑顔。だけじゃない、だけじゃなくて何だろう……その何かをいまはただ手探りであつめてあつめて、まるで風をあつめるかのように。そう、彼女は風だった、時にそよ風、時に春の嵐のように、時には梢でやすらぐ凪のような、学生の身分に与えられた瞬く聖域のなかでもとりわけ何にも代えがたい、たぶん二度とは出会うことのない可憐な野の花、どこかの、知られぬ高原の孤高のけれどそのことをさびしいとは嘆いたことのない――うそだ、ぼくは打ち明けられていた「こどもの頃からなの」と携帯のない彼女の手書きで「いつもいつもさびしい」となみだの跡もあることをわかっていながらも、ぼくが返せた言葉に果たして彼女にとっての真実救いとなることが出来得たいくつかがあっただろうか。いつもぼくはここまで思い返した時にぼく自身から逃げ出したくなる。そしてそれでもこの生涯をぼくは彼女にだけ費やすことがないであろうこと。歳月はまったく残酷だとの予感ではなく確信に押し潰され流されるがままに、あたらしいあしたは訪れ続ける。「またね!」〝最後の〟……』気配の明るさで目覚めると、今日だった。また、今日だった。日常は誰にとってだって闘いだろう、例外はない、とぼくは決定すると布団から這い出して洗面を済ませ服を選び(選ぶほどは持ってはいない)何事もなかった、つまり〝彼女〟はもともとが単なる架空の人物であるかのような顔をして気がつくと電車に揺られている。教えてほしい、たとえば神と呼ばれる存在があったとして教えてほしい、これは正しいことなのですか。その答をぼくは知りたい。職場で仕事に、対人のストレスやよろこびに忙殺されて、彼女のことを思い出さない日もあると告白する、この四百字詰め原稿用紙に向かって、ぼくは(私は)金曜日、いつもの帰宅後、週末への関所で、ぼくはぼくを(私は私を)守らなくてはならないから、言い訳でも言い逃れでもなくてとどこかへ向かって赦しを乞いながら『……末期の痛みゆえにぼくから(すら)立ち去ることを選んだ一人の女性を、初恋だったあの遠い日日を想っていると』背後で声がして現実に引き戻された。嫁さんだった。学生時代の、若さだけがすべてで実質無力だったあの頃の私にはあらかじめ知り得るすべもなかった、いまの、堅実な社会人としての〝家庭〟を持ってこその平穏な毎日、やがて週末、嫁さんが整えてくれる居心地の良いこの世界を現実を守るためならどんな邪魔が入ろうとも闘い抜きこの確かな現実を決して――そこで私はまったく我に返った「赤ちゃんが!」嫁さんは間違いなくそう言った。

 私たち夫婦はおよそ半年ほどの時間を費やして真剣に話し合った末に、里親としての道を歩む決意を固めていた。必要な届け出などを済ませに次の連休にこそきっと二人で一緒に出向こうとさえしていた、その矢先の、あまりにも突然の、もちろん嫁さんにとっても〝あまりにも突然の〟主治医からの、あたたかな祝福を湛えた笑顔とともに告げられた「確かです」聞き返しては念を押されての今日の診察だったとのこと。姉さん女房の体を思えば、そろそろ最後のチャンスでもあった、待望のわが子。私の、私たちの、私と嫁さんとの!

 いつかしら〝実在した一人の女性と、忘れ得ない「あの日日」とをいつかは活字にしておきたい〟という熱病から抜け出ることができていた私は、これまでをともに過ごしてきた十余年を机の引き出し奥深くにしまって、そっと遠ざかっていった、ごく自然なことなのだと自分に言い聞かせて。

 夕陽の次が朝陽。二人とも男の子。長男が夕方に生まれ、二年後の次男が朝のこどもだ。「ゆうひ」と「あさひ」二人ともが妻に似ていた。顔つきも性格も。丸顔で童顔で、おさない頃から穏やかな二人だった。静かに、家族四人の夢のような日日はまた鮮やかにも、瞼に焼きつくようにも過ぎてゆく。すべてを〝本当に〟残そうとするかのように私はいつしか常にスマートフォンだけでなく、デジタルカメラも持ち歩くようになっていた。コンパクトな手軽な機種ばかりではあっても選ぶ時にはいつも慎重に、二代目、三代目、そしていまので四代目。妻は「まだ使えるのに?」という顔をしながらも家電量販店には四人で出かける、夕陽も朝陽も中学校に上がる前にすでにそれぞれが自分のカメラを持つようにもなっていた、やがて高校一年生の夏、アルバイトをがんばった夕陽はついに一眼レフに持ち替えて、気がつくと夕食の時に朝陽を相手に物知り顔で「ライカはね」などと言うようにもなり知識もすっかりませてくる。

 職場での話を避けてきたけれど、妻となったひととは、同じ事業部で出会えた。それでもその後の中間管理職としての、いわゆる板挟みのつらい時期は長く、早く帰宅したくても望めない日も多い。サラリーマンの家庭に育ったのでそのことはいつともなしにある程度の覚悟はしていた。ただ、私の父はドロップアウトの道を選び、結果的には安定させて、いまは珈琲店を経営している。しかし、父よりも少し歳の若かった母は、昇進の話を断って会社を辞めてしまった父との生活に、愛想を尽かした。父が私を引き受け、母は私の見知らぬ人間と〝ぼくの育った家〟で出直して、会ったことのない、〝ぼく以外の〟こどもを持っている。「母さんがしあわせならそれでいい」それが父の口癖だったし、母に離婚を迫られた際にも率直に母に向けて同じ科白を置いて、夫婦の間柄に関する何もかものことが父のそのひと言で決まったらしく、翌朝には荷物をまとめ終えた父は中学生になったばかりの私を連れて家を出て、まずはアパート探しからのやり直しの人生を私には葛藤や愚痴などこれっぽっちも聞かせずに(父のことだから)ほがらかに歩き始めた。

 私が大学進学を、こどもなりに仕方のないことだと諦めていた高一の夏休み、母から一通の手紙とそして通帳が届いた。父が仕事から帰るのを待って(父はその頃まだ、旧知の恩人――だと教えてくれていた――の店で修行中だった)二人で母からの手紙を一緒に読み始めた。父に宛てた言葉はなかったが、それでも父には伝わるものがあったようだ。しかしその傍らで実は最初は手紙を読み飛ばすように眺めていただけの私は、本当は手紙よりも通帳のことが気になって仕方なかった。名義人のところにはどのようにしてそうすることができたのか、私の名前が正しく印字してあったのだ。しばらく言葉を失っていたかのような父が気づいてくれて、「ごめんごめん」と多少の疲れを隠せずに、それでも父親としての自分を思い出したかのようにいつものほがらかさと微かな照れくささとを滲ませながら「おまえの名義だ、おまえが確かめなさい」父が言い終わらないうちにぼくは(私は)見つけた、こどもの小遣いの桁ではない額面の「ぼくの名義」のお金。驚きを隠せずに、今度こそは母からの手紙をゆっくりと、深呼吸をしてから読み直す。「……これはあなたにと主人が積み立てたものです、使い道は自由だけれどできれば大学進学のために使ってほしい、そう言っています。あなたには私はもう何も言う権利はありません、でも、これだけは。もしも、もしかして、また。私の太陽へ」そう結ばれていた。母が「はるか」と私を呼ぶ声が聴こえた気がした、いくども聴こえた「はるか」懐かしい母の声で。父からの、「返事を出すのはよしなさい、母さんには伝わっているはずだから」という助言に、どこか父と母とにしかわからない、けれど大切な何かを感じて私は黙って見知らぬひとからの好意を受け取り、進学とそしてその後の学費のためにだけその通帳の中身を引き出した。

 大学で一人の女学生と知り合い死別し、会社で、やがて結婚することになる女性と出会ってそしてその後のいまへと続く、これでこの、どこにでも転がっていそうな身の上話は幕を閉じてもいいのだが、つまりとりあえずいま、私は結局、父と同じ道を歩んでいる。そこには、父の歳を考えれば少しでも力になりたいという孝行心もあったし、父が築き上げた城を一代限りで終わらせたくはないという息子としての意気地のようなものも、それももちろんなくはなかったとも言える。実際のところ、父よりもはるかに恵まれての再出発だった、父がすでに家賃のいらない自分の店を持っていてくれたのだから。私は、店側の人間の居場所は父と私の二人分しか考えられない構造の店舗で、豆だけを求めに来る常連のお客さんもいてくれる町の珈琲屋としての、思ってもみなかった裏方の細かくて地味な仕事から教え込まれることになる。その、店番を一人でもやっとまかせてもらえるようになった頃のある日、客足の途絶える時間帯にふと思い出したのだ、学生時代のあの〝彼女〟のことを。いったいなぜ、彼女は医者にかからなかったのだろう、なぜ、彼女の家族はそれを放っておいたのだろう。どんなに考えても答は出ない。ふいに私は、今朝の仕事の隙間に目に留まっていた活字を思い出してはっとなった。そして店のお客さんのために取っている新聞の、その見出しの文字からすぐに目的のページに飛び、彼女との日常を当時よりもずっと正確に思い出していた。〝虐待〟。そういえばと、あれもこれもすべてのピースがおさまるべきところにおさまり、理由を聞こうなどとは思いもしなかった、彼女の、一度もパーマを知らないという髪を思い出した。カラーリングも知らないと言っていた、私はそれだけの話としてしか聞いていなかった。二人で食事に行く、学生だからもちろん学生向けの、レストランというより食堂ばかりだったけれど。その際の彼女がよみがえる。運ばれてきた定食を見つめる横顔や、食券を「ぼくが買う」といういつもの提案への毎回のまるで遠くの話を聴いているかのようなまなざし。彼女にどこでもいいからと希望を聞いても「家庭のごはんのお店」ばかりを望まれた。遠慮かと、若さゆえにか短絡的にも私は、しかしこちらにも事情があったから、そしてそのことを彼女にも話したことがあったから、そんなことを言う彼女をますます好意的にしか、まったく短絡的に美徳としての慎ましさを備えたひとだとしか見ていなかった。見れなかった、それほどに(二人ともに)余裕もなかった(あの頃の私には「二人とも余裕がない」という思いだけが及べるすべてだった)。いま、一からのスタートを妻とこどもたち、そして父とにあたたかく見守られ、許されて踏み出してから多少とも日も経ち、私は店に来るお客さんのなかに、時に若き日のあの彼女を彷彿とさせる二十歳前後の無防備を見い出すことも確かにあった。学生時代の彼女と、すぐ目の前の〝こどもたち〟とが背負っているはずの生い立ちのその深刻さにやっと思い至った私はいきなり〝あの日〟に呼び戻された。想像を絶する過酷さであったろう現実を生き抜けなかった彼女。ぼくには、なぜだろう、たった一枚の写真と、そのなかの笑顔……

 ……目を開けると、店の天井があった。体は、万が一の備えである化繊の毛布で包まれており、首を少し傾げると、いつの間にか店に戻っていた父の、老いてはいても「まだまだ」とでも言いたげな二つの瞳が私の顔を覗き込んでいた。瞬時に前後の状況を把握できるだけの〝大人〟になっていた私は、体を起こして、まず、経営者である父に不覚を詫びる。父は黙ったまま何も問わずに静かにほほえみ、利き手である右手をこちらに伸ばすと、私の髪を二度もくしゃくしゃにした。臨時休業の件については二人とも触れず、妻たちに特に知らせるべきことでもないと自らで判断した私は、いつもの帰宅時間までをそのまま、客席で毛布に包まったまま父と二人で言葉少なに過ごした。

 夕陽が「紹介したいひとがいる」と言って、土曜日か日曜日は無理かと珍しくわがままらしきことを控え目に切り出したこの日の夕食の席で、すぐに妻とうなずきあって、夕陽にほほえんでみせた。夕陽ははにかみながらも「うん、ありがとね、父さん、母さん」そう言ってあとは普段通りの食卓にもどる。このあたりまえの家族の食事の時間や空間を知らないこどもたち、しかも……新聞の記事を思い返しながら、また、これまで聞き流していたかのようなニュースも気づかないうちに耳に残っていたらしい、それらが、抵抗すら知らないこどもたちのことが、その夜の妻との、心をしめつけられる話題となっていた。妻が「もし夕陽と朝陽がいなかったら、私たち、そんなこどもたちの一人でもを助けることもできたのかしらね」ため息とともに黙り込んで、見るとなみだぐんでいる。「周子」いたわるように私はひと言ひと言を噛みしめながら、妻に語り始めた。「こんなぼくをこれまでありがとう、なにより夕陽と朝陽をほんとにありがとう」妻とは向き合う位置にいた私は妻の隣に座り直した。そして、いま愛している女性の肩を抱き寄せてから、続けるべくして言葉を続けた。

 周子、ぼくが母さんからもらった最後の言葉は「また」だったよ。永遠なんてない。けれど、これからも生ある限りはかけがえのない、ぼくたちの日日を撮り続けたいし、これまでの一枚一枚には――やっと気づいたんだけど――その時の君、夕陽、朝陽への一番の願い、これでさよならではなくてまた、明日かならず、そんな途切れることのない願いが込められていたんだと思う。たとえば一歳の夕陽、たとえば五歳の朝陽、あの夏のまぶしい笑顔の君、あの冬の忘れがたい横顔の君。君たちを撮る毎回のシャッター音は単なるそれを超えてぼくの言葉「またね!」だった。だからこれからもシャッターを切る。繰り返し、「またね!」だからね、さよならではなくてと祈るような、ぼくなりの、せいいっぱいの想いとともに。



散文(批評随筆小説等) またね! Copyright もっぷ 2016-12-16 19:10:22
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