はるな


今年いちばんの冷え込みでした、とテレビが言っている、どおりで指さきまでかちかちに冷えるわけだ。凍るような朝焼けのあと、毛布のなかでからだをぎゅっとちぢこめていても伝わってくる娘と夫の体温にはさまれて、もう一度ねむたくなる。きのうと、そのまえの日曜日と、あたらしい家をみにいった。先週は娘と夫と三人で、きのうは夫とふたりで。娘が産まれて以来、二人になるのははじめてだった。わたしはいまでもやすやすと思い出す、知り合ったころ、はじめて夫(そのときは恋人だった)とはじめてしたドライブ。借りた車で江の島へ行った、道がすいていて快適だったこと、彼のとなりは快適だなと感じていたこと。判でついたみたいにありきたりな土産物屋、ソフトクリーム、がたがたするベンチ。
ときどき、人生を助手席にのったまま過ごしているような気持がする。流れていく景色、点滅するウィンカー、表示される渋滞情報、時折求められる意見―「首都高に乗らないほうがよさそうかな?」―、運転手のためにコーヒーの蓋を開ける―そして閉める―、ガムの包み紙をひらく―そしてガムを吐き出すときまでそれを持っている。
娘と二年半(あるいは妊娠してからの三年とすこし)、べったりと幸福を過ごした。それはどうぶつみたいな二年半だったから、わたしはどこにもいなかった。いないままこのまま過ごすのかな、でもそれもいいな、いいかもな、どうぶつのまま走っているように生きるのは。とぼんやり考えて、考えたそばからそれも忘れて、とてもよかった。でももうその時期は終わってしまったから、わたしは考えなければならない。

何度でも考えなければならない。意味や理由や、価値や無価値について、調べたり、考えたり、作ったりしなければならないと思う。逃げたり追ったり、戦ったりかわしたりするために、考えなければならないと思う。生きたいか、そうでないかのどちらかかと思っていた。でも今はもう少し考えなければならないと思う、なぜここにこのように空が落ちるのか、娘の目がこんなに明るいのか、色と時間の関係とか、男のこたちの考えてることとか、どうしたら夫が笑ってくれるのかとか、もっとおいしい出汁をひく方法とか、どうしてこんなにさびしいのかとか。
なだらかな弧をえがく道を行ったり来たりしている、それもときどき立ち止まりながら。ときどき先があかるすぎて、途方にくれてしまう。あかるすぎるのは、何も見えないのとよく似ているうえにどこか脅迫的だ。幸福でなければならない、と言われている気持がする。不幸になる理由はないのだから、と縫い付けられて、自分から息をとめていた。わたしは不幸でも幸福でもなかったけれど、さびしかった。からだじゅうさびしくて、息をとめながら、どうやって息をすればいいのか考えていた。ためすのはこわかった、だれも良いと言ってくれなかったし、そもそも良いのかどうかを聞くこともできなかったから。助手席にすわって、どんどん進む景色をみながら、誰もいない運転席を知っていた。


散文(批評随筆小説等) Copyright はるな 2016-12-12 20:28:56
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