好きなものとは
水菜
好きなものとは、多少の無理も可能にするものである
たとえば、言の葉を抉り出すことだって、好きでやっているのだ
それは、喩えるなら、広大な菜の花畑で、幼い頃に心を通わせた特別なあの小さなあぶら虫を捜すようなとてつもないことであり、永遠に続く果ての無い作業でもある
雑多で広大な菜の花畑で、当たり前に息をしているであろう見も知らぬあぶら虫を捜すのではない
わたしは、あのあぶら虫を捜しているのだ
世間から見れば、気味の悪いものであったとしても
わたしにとっては、それは特別なあぶら虫であり、
唯一無二の好きでやっていることであるのだ
どのようにも見ていただいても構わない
わたしは、わたしの好きでやっていることをどう見られようが、わたしは、あのあぶら虫を捜し続けることをやめはしない
わたしは、わたしの世界が変質する時まで、飽きもせず、追い続けるのだ
それは、好きでやっているからこそであり、
好きなものとは、多少の無理も可能にするものである