地と水
あおい満月

空腹を満たすようにあなたは水を飲む。
水はその身体に浸透し血と混じりあい血の赤い色素を超えていく。あなたのなかの色という色を溶かしこんで、水により透明になったその身体のなかの水は、あなたの毛穴や瞳や、鼻や、穴という穴からあふれだして、リビングを水浸しにする。足元だった水は、踝に達し、踝から脛、腿、やがて腰から胸へと達しその口をめざし駆けていく。口から喉に侵入し、再びあなたに取り込まれた水は、一匹の蛇になってあなたを壊していく。
大地と水、肉体と水が激しく争う。
肉体は膨張することで水を阻止し、水はその肉体を切り裂き攻撃する。目も耳も鼻も口も腕も指もぼろぼろになったあなたは、細い月のように美しい。鏡を見ながらあなたは、あらゆるものが削がれ、骨と皮になった湾曲状の身体を愛しそうに撫でる。部屋中の蛍光灯は、壊れて割れてしまって明かりがつかない。月の光だけがたよりだ。何かがあなたの指を刺す。割れた蛍光灯の破片だ。僅かな傷跡から、まだなにものにもおかされていない鮮やかな血が滴る。水に攻撃されたあとの、僅かに残った生の領域に、あなたは安堵し、血のついた指を舐める。昔、自分は海だった。そんなことを思いだし、僅かに潮の名残が残るその味に、
あなたは小さく深く、慟哭する。


遠くで、誰かの声を聴いた。歓喜のような叫び声だ。けれど、どこか冷たい。いや、歓喜ではなく、悲しみの叫び声だ。
声をたよりに、森の奥へ奥へと入っていく。途中、道が道ではなくなっているのに気がつく。そこは、限りなく赤かった。ひたひたと、足元が濡れている。地面に指を触れさせると、冷たいよりも生ぬるかった。指についた赤い透明の液体はどこか鉄に似たにおいがした。異様に暑かった。まるで自分の体内に閉じ込められてしまったように、八方塞がりな気だるさが進む足の邪魔をした。声はまだ響いている。思わず足を止めた。大きな口をした穴が、人間の背中を飲み込んでいた。

**

あなたは、必死にもがいていた。あなたの長い髪を口は咀嚼し、両腕は傷だらけだった。渾身の力を振り絞り、あなたを穴から引き出す。息が荒いあなたは、吐き気を訴え、あなたを呑み込もうとした口さながらの大きな口で吐瀉物を吐き出す。吐瀉物は洪水になって、あなたの毛穴という毛穴から音を立てて流れてくる。あなたが吐き出したものは、魚だった。小さなさかなたち。どれも死んでいるような、まだ生きているような、曖昧な目をして宙を仰いでいる。さかなの目を覗きこむと、そこに水面に映りこむ迷路があった。手を伸ばす。階段に引き込まれる。

***

あてもなく、暗い階段を降りていく。
あなたは水を飲む。上下する咽喉のリズムと、階段をくだるリズムが比例する。あなたが飲んだ水たちは、あなたの喉をすり抜け内蔵を通り、やがて血の海へと旅をはじめる。あてもなくくだり続ける階段の先には何があるのか。ガシャン、グラスが割れる。反射的にグラスの破片に触れたあなたの指から、血が滴る。血のなかの水たちははじけ、はじめて外界の一部になる。階段がない、この身が待っている先は闇か、それとも遥か昔に繋がっていた地球の内部へと帰るのか。

****

あなたは水を飲む。飲み続ける。あなたをつかさどる一定のリズムの謎を永遠になぞりながら。今も、あなたの内部では、肉体と血が、終わらない戦いを続けている。大地と水が、互いの高さを競うように。

2016.8.4(Thu)


自由詩 地と水 Copyright あおい満月 2016-11-21 22:00:38
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