赤いぼろきれと蜘蛛
田中修子
とてもとても遠い昔、あるところに、こじきの女の子がいました。
笑うのも泣くのも、おしゃべりも、誰かのお気に入りになるのも得意。
こどものころは大変でしたが、大人になり、乳房が豊かに揺れるころになると、その日いちにち、食べるのに困らないだけのお金を集めるのは、ふつうのおつとめの人より、かんたんになってしまいました。
そうなると、こじきの女の子は、もう、こじきではなくなっていました。
道端に捨てられていたときにくるまれていたぼろぼろの布をつつじの花で赤く染め上げ、首元に巻いておしゃれをします。
手に入れた部屋には、たくさんの人が訪れました。
絵描き、詩人、馬車が好きな人、料理を作る人。
体の病気の人、こころの病気の人。
男も、女も。
猫もきて、犬もきた。
ある人は、首を吊るところを拾われて、住みついた。
ある人は、馬車を走らせ、透明な川のめぐる緑の山を越えてきた。
ある人は、海のそばの家を捨て、幸せにするためと、やってきた。
そうして、男はみんな、ダメになっていきました。
その人たちに抱かれるうちに、こじきの女の子のこころは、どんどん透き通り、痩せ細っていきました。
一緒に住めなくなり、みな、不幸になっていきました。
男は財産を失い、こじきの女の子は心を失っていく。
こじきの女の子を最高に愛した、海からきた男を追い出したとき、こじきの女の子は心をおしまいにしました。
「もう、あたしに人はいらないわ。動物もいらないわ。みんなダメになっていった」
家の中にいるはえとり蜘蛛に、名前をつけました。はつ恋の人の、名前です。
洗面台の子は特にお気に入りです。
「お前は大きくおなり、何も考えず、大きくおなり」
さて、どうやってはえとり蜘蛛を大きくするか。
ひさしぶりに、こじきの女の子の心が躍ります。
「この町でいちばん頭のいいものに、育て方を聞きに行こう」
こじきの女の子は、たゆたうように、夜の町に出ました。眠たげに、こっくりこっくりと、頭がゆれています。
町長さんの家にきました。
家の中からは、まじめに働く町の人をあざ笑う声がします。町長さんちの家の子は、こじきの女の子が一番つらい時に、石をぶつけてきた子どもでした。
「やめた」
難しい本を読む先生の家へ行きました。
その先生は、こじきの女の子がいじめられていたときに、みんなの先導にたっていじめてきたことを思い出しました。
「やめた」
売春婦たちのところへ行きかけました。
古い傷が痛んで、背中がざわりざわりと汗にぬれそぼります。
「やめた」
お寺へゆきました。
住職さんが札束を、指をなめながらめくっていました。小僧さんたちばかりが苦しそうに働いています。黒人の男の子は、お肉が食べたいと泣いていました。
「やめた」
竹の葉がざらざらとざわめく中、月の明かりを頼りによろめくように歩きます。
虫がりんりんと鳴いていて、こじきの女の子も一緒に泣いてしまいそうでしたが、涙はもう出ないのです。
「何もかも、もうやめた。私は病気だもの、治りっこないわ、もうここまででいいのだった」
立ち止まったとき、狐が通りかかり、ふさふさと尻尾を揺らし、こじきの女の子の首に巻き付いてささやきます。
「考えないで感じること」
催眠術にかかったようにこじきの女の子は眠りにつきました。一瞬の眠りの中、果てのない旅をし、瞬きすると、少なくとも、はえとり蜘蛛の餌のやり方は、不思議と分かっていたのです。こじきの女の子は、意気揚々と部屋に帰ります。一瞬の果ての間、はえとり蜘蛛はじいっと待っていてくれました。
安寧な日々。
はえとり蜘蛛が小さい虫を食べて生きるので、部屋の掃除もしませんでした。
小さい虫がやってきて、はえとり蜘蛛のおいしいご飯になるからです。
自分のすべてをささげ、可愛がりました。
しかし日々にも終わりが来る。
やがてはえとり蜘蛛は、いままでの男と同じように、こじきの女の子を愛するようになってしまったのです。
(僕はかっこうよくもない。できることといったらほんのわずか。そんな僕にあなたは見つめて微笑んでくれる)
「お前は人じゃないから好き。大きく、大きくおなり」
(僕はあなたを幸せにしたい。僕はあなたと幸せになりたい)
「お前はしゃべらず、優しく、うちをきれいにしてくれようとする。なんて素敵な存在だろう。ただ、大きく、大きくおなり」
やがて、はえとり蜘蛛はこころが空っぽになっていくのを感じました。
伝えられない分、ご飯を食べてゆくばかり。
むしゃむしゃ、むしゃむしゃ。
ああ、腹ペコなのは心なのに、それを埋めることはできないのだから、食べるしかありません。
大好きで大好きで、こじきの女の子を、小さい虫のように食べてしまいたいと願うようになりました。
(僕はあなたを愛している)
「お前はそのまま、大きくおなり」
むしゃむしゃ、むしゃむしゃ。
(僕はあなたを幸せにしたい)
「お前はこのまま、大きくおなり」
ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ。
はえとり蜘蛛が、部屋のすみの埃や、椅子、こじきの女の子の背を越える日がやってきました。
そうやってどんなに大きくなっても、愛し合うことはできないと気付いたとき、
「僕はもうすぐ死に、生まれ変わって人になり、あなたを幸せにします、さようなら」
はえとり蜘蛛は、そう告げました。
「お前は、お前のままでいいのに!」
悲鳴でした。
それが、はじめてで最後の、はえとり蜘蛛とこじきの女の子との会話。
こじきの女の子が、いくら部屋を散らかし、小さい虫を呼んでも、もう何も口にしません。
ベッドの上で、大きなはえとり蜘蛛が、どんどん細くなり、どんどん灰色に干からびていくのを、こじきの女の子は黙って見つめていました。
はえとり蜘蛛が最後の息を引き取るその瞬間、醜いからだから、世にも美しい男に変身しました。
こじきの女の子は、その姿を見て、最後の恋に落ちました。
もう遅いというのに。
そのあと、こじきの女の子がどうなったのかは分かりません。
部屋はからっぽで埃だらけ。
つつじで染めた布だけが、赤い亡霊のように部屋の隅にころがっていました。
いくつかの時代が過ぎました。
その部屋で、食べられるのが好きな女が暮らしていました。
胸は豊か、足首はすんなり、二の腕はどこまでも白く、やわらかい。 眠たそうにぼんやりとした顔には、いつも死の影が落ちていて、それでいて明るい微笑みが消えない。
夏が青ざめた夕暮れ、秋の虫が鳴き始めている季節です。はじめて北を直撃することになる、台風がやってきました。
女はこのお話を書いて、手をさっぱりさせに洗面台にゆき、骨董市で手に入れた、不思議と気になるぼろぼろの布で手をふきました。
布の赤は薄れ、あるかなきかの桃色。男が女にちらほらと落としていく、口づけの色のように。
蛇口をしめると、排水溝のところに、さっきまで元気だったはえとり蜘蛛が小さくなって死んでいました。
女はさみしそうに笑いながら、水で流してしまいました。