喋る雨傘と満月
りゅうのあくび

冷たい雨音を遮りながら
仕事帰りに紺色の雨傘は
静かに溜息をついていた
鉄道駅に着いたので
ちょうど雨傘をたたもうとして
夜空を閉じるときに
満月がみえると本当はいいのにねと
何か反実仮想にも似ている
緩やかな吐息を
紺色の雨傘は僕に吹きかけた

鉄道列車を待ちながら
今夜だけは月夜を見せてくれよ
満月が一番近づいて
最大のサイズで見える夜空なんだと
僕は雨傘に呟いてみた
ただ紺色の雨傘の
永くて錆びた柄と
軽く握手しながらで
やはり哀しそうに
涙を流していただけだった
月のひかりですら届かずにいた
君の伝言だけを遠い雨音のなかへ
運んでいた夜空
もう悲しい雨音に
初冬の足跡が消えてゆく

まるで磁石でできた
月夜みたいに
雨雲やら傘の骨組みですら
天空にずっと吸い付いていた

だから秘密だよ
悩むことのほとんどは
本当のところ
悪いことだけじゃないんだよと
いつもより健気に
背筋を伸ばして
ぽつんぽつんと
雨傘の君は僕にだけ
そっと話していたように思えた

やっと鉄道駅から
電車に乗り込むと
僕が口笛を吹きながら
そうだよ
悩むことは困ることよりも
ずっといいことだよと
応えるとやはりぽつんぽつんと
哀しい雨粒が堕ちる
鉄道列車に乗りながら
家路の途中で
きっと夜空が晴れるよと
紺色のナイロンでできた
雨傘の縁から再び
静かに溜息がこぼれていた

終着駅に就くとすでに雨音は止んでいた
紺色の雨傘を巻き直す
からりとして晴れた月夜がある
遠い靴音だけが締まっている
ポケットにあるはずの鍵を手探りすると
満月が見える方角から
我が家で夕餉の匂いがする


自由詩 喋る雨傘と満月 Copyright りゅうのあくび 2016-11-14 22:40:10
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