テクストと批評
天才詩人

あんまりこの手のライティングは得意じゃないんですが、文学極道で、「テクスト」という言葉の用法をめぐって議論になったので、「テクスト」という用語、および「批評とは何か」というテーマについてかんたんにまとめてみようと思います。

まず、端的に僕の立場を言うと、この言葉は、いま批評活動を展開するとき、なくてはならない大切なものだと考えています。ところで、この文章 は、敢えてインターネットや本を一切参照せず、完全に僕個人の感覚だけを頼りに書いています。「テクスト」という言葉をどう使うか、これは、突っ込んだ議論をするなら、ポスト構造主義のことを話さないといけないと思うんですが、そこを一気に飛ばして要約すると、 「テクスト」は批評の対象を、できるかぎり自由に設定するための、有用なターム(用語)なんだと思います。

たとえば、いま30代以上の人たちに考えて欲しいんですが、子供や青少年だったころ、現在のように「ドラえもん」やアイドル歌手のポップソングが、大学のゼミや人文学系の学会 で、シリアスな考察の対象になることがあったと思いますか。答えは否です。その当時は、批評(および人文系の考察や分析)は、「高尚」な美術や、文学作品などに対象を限定した行為でした。別の言い方をすれば、教養層むけのハイカルチャーと、庶民や若者のポップカルチャーはほぼ別のものとみなされていたわけです。ところが、おそらく90年代以降、この傾向に変化が出てきます。従来の、高尚な文化と低級な文化を分かつ線引きの恣意性に批判があつまり、「文学」や「芸術」の枠におさまらない作品や現象も、まじめな批評行為の対象として認めましょう、という合意が形成されてきたのです。

僕の感覚では、いま言った「文学」「芸 術」という2つのカテゴリーをはみ出してしまうものを含め、包括的にあらゆるものを批評の守備範囲とするとき、その対象を「テクスト」と呼びます。いかにこの横文字が不自然に聞こえようと、いまのところ代替となる表現がありません。いまや、セーラームーンや、初音ミクの歌、LINEでの高校生同士のやりとり、電化製品の説明書、そしてもちろん、ネットに投稿される文芸作品も、「テクスト」として、プロの批評家や学者による解釈や分析の対象になる時代です。それから、これは大事な点なのですが、テクストと呼ぶからと言って、対象は言語メディアに限りません。美術作品、なされた(パフォームされた) 演劇や、社会的行為なども、すべて「テクスト」と見なします。たとえ言語を媒介としなくても、それは批評行為の射程に入ったとたん、「テクスト」なわけです。

もちろん、このように批評の対象を広くとることで、「作品」の良否を度外視する態度が横行する危険は否めません。ドストエフスキーの小説やニーチェの著作が、主婦の携帯アプリでの会話と同等に扱われることに対する危惧は、あってしかるべきなわけです。しかし、おそらくポイントは、ドストエフスキーの小説も、LINEの会話や、SNSでの「つぶやき」、ドラゴンボールZなどと同様に、それが書かれた/なされた特定の時代や、文化的な「場」について、「何 か」を言っているということです。対象がなんであっても、それを「テクスト」として括り、詳細な検討をくわえることによって、ひとつの時代や場所、文化に特有のモノの見方、世界観などを取り出すのが、有意味な「批評」だと考えます。

現時点において、批評行為を考えるとき、旧来の文芸、演劇、美術批評などで研磨されて きたアプ ローチが、欠かせない土台である、というのは事実でしょう。繰り返しますが、美術、文学作品の優劣を、半ば没価値的に、社会学者や素人の分析だけにゆだねるべきでは ないというのは当然の話です。いっぽうで、過去数十年を振りかえると、美術や文学といった特定のインテリや文芸愛好家の専門領域であった批評行為の意味自体が変容しています。たとえば、目下、日本において「藝術」とは何かと問うときに、片っ端から美術史やアートの文献を調べるも大事なのですが、もっと簡単な方法として、ドラえもんで「芸術家」や「画家」がどんな人物として描かれているかを見ればよいのです(たとえば、しずかちゃんの叔父さんが画家で、ベレー帽をかぶって登場し、のびたくんたちの描く絵を指導するエピソードがあります)。

まとめると、文学、芸術作品、映画、 演劇、社会的行為、法律、外国為替市場、ヘイトスピーチ、行列のできるラーメン屋さんガイド、インターネット上の詩作品。これらすべてを「テクスト」として批評する というのは、あらゆるリソースを解釈/読解の対象とみなして、特定の歴史的時間に埋めこまれた、地理・文化的な「場所」を探査して、識るということなのです。その意味で、批評をすることは、世界を参与観察を通して記述する、文化人類学者の民族誌(エスノグラフィー)のこころみに近い。なぜここで文化人類学を 持ち出すのか。それは、世界を、世界各地で、(アフリカで、南米で、南太平洋の島々で)「経済」「藝術」「モラル」といった従来の社会的な共通項をいったん白紙に戻した地点から、包括的に捉え直し、書かれたもの、もしくはパフォームされた社会的行為を特定の「場所」において開示される「世界」のありかたの顕現として、「読む」ことを実践して見せたのは彼らにほかならないと思えるからです。教科書的な書きかたになってしまいましたが、現状の説明はこれで終わりです。

この先に、僕がほんとうに書きたいことがあるんですが、今日はとりあえずここまでとします。


散文(批評随筆小説等) テクストと批評 Copyright 天才詩人 2016-08-23 07:42:04
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