三十歳
葉leaf
朝陽は陰々と降りかかる、その日の人々の通勤に結論を下すため。人々が夢から生まれ、途端にすべやかな仮面とともに成人するのを見届けるため。電車は巨大な獣のように息を荒げて疾駆する、人々を腹の中に収めてはまた吐き出し、同じ線路を毎回異なるまなざしでやさしくにらむ。彼は着古したスーツに身を包んで、粉々になった朝の中枢を手繰るようにホームへとのぼっていく。始まりがすべて何かの終わりだとしても、この一日のはじまりは終わらせたい流血を一つも止血してくれない。
正しいものがどれも間違っていても、正しさが終焉する沃野に今彼は立っていて、そこでは間違いもすべて狂気を治めてしまう。追求する目的という果実めいたものはとっくに食らいつくして、追求の運動という飢えばかりが残った。彼のスーツにはたくさんの色彩が混じって、その黒を一層黒くした。どんな苦難も喜びも吸い取るために、スーツは黒でなければならなかった。彼と朝陽は毎朝新しく出会い、新しく別れる、互いに交わすメッセージはすべて言葉以外に蒸留しなければならない、例えば雲の白のように。
コンピューターの原料となる岩石がまだ自らの夢を知らなくても済んだころから、自然を利用するのは人間の罪滅ぼしだった。風が木の葉を揺らすように、仕事は人間を動かした。風の源泉が不明であるように、仕事の源泉を遡ると結局彼自身に還流した。畢竟人生は一つのパズルに過ぎない、与えられた謎に対して適切な解を返して行って次第に全体へと漸近する、当てはまりの快楽に満ちた命のやり取りだ。パズルに直面した苦悩もまた一つのパズルであり、そのパズルを解くパズルも当然無限にパズルである。
捨てていった影に寄り添うように、膨大な量の光を捨てる。消していった憎しみに寄り添うように、膨大な量の愛を消す。どんな緻密な倫理も彼を追い込むことはできず、彼は倫理に垂直に突き刺さる永遠の直線なのだ。死ぬことは何かを始めることであり、彼は自分が死ぬときに何を始めるか、何が始まるか、それだけをきれいな文字でノートに厳密に記述している。社会は死で構成されており、死んだ権力が死んだ暴力を行使して、ますます彼の垂直な直線は強靭に伸びていくばかりだ。