小品~三重奏
ヒヤシンス
今宵森の中の静かなアトリエでチェロを弾く君。
君は自分の色彩を確かめながら求めているのだ。
私は君の唯一の客。
私も君のチェロの音色を聴きながら自分の色彩を求めている。
私のヴィオラは久しく音が出ない。
君と私、共に一度失った色彩を今再び取り戻そうか。
今宵の満月がうっとりと空に浮かんでいる。
森の木々はひんやりとした風に流れている。
君の小さなアトリエでは仄かな珈琲の香りが充満している。
描きかけのキャンバスには名も知れぬ花々が君の匂いを漂わせている。
私はその空間の邪魔にならぬようテラスに出て珈琲を啜りながら煙草を吸う。
群青色の夜空に君の音が穏やかに流れてゆく。
君は君の旋律を歌い、私は私の旋律を歌う。
ここに彼がいてくれたらと願いながら。
彼はそのヴァイオリンで彼独特の歌を歌う。
彼の旋律は彼にしか歌えない。
感情の襞をこするような美に溢れている。
彼自身忘却の彼方にその歌を歌う。
恐るべき才能。
彼はこのアトリエの住人だった。
そしていつしか流星のように消えてしまった。
森の中に君の全く新しい旋律が生まれた。
私はその美しさに狂喜した。
流れる旋律が私の心に沁み渡る。
彼方に彼のヴァイオリンが聴こえた。
アトリエに置いてあったヴィオラが私を待っていた。
手に取ると音の出ないはずの私のヴィオラから無意識の旋律がゆったりと流れた。
私らの奇跡の三重奏。
月の光が私らを照らす。
私らは心穏やかにそれぞれの色彩を取り戻した。
彼の音色は幻だったのだろうか。
君と私ははっきりと彼の音を聴いた。
その音はまさしく彼だった。
夜空を見上げれば、月の光の帯の中に彼はいた。
彼は優しく微笑みながらゆっくりと天上へ歩んでいった。
今日は彼の月命日であったのだ。