そして落葉樹は
もっぷ
その落葉樹は絃となる葉をすべて失っていたが、月の明るいこの夜また、訪問者を得ることができた。
「もう、歌わせてあげられないのに」
いつものその風に、いつものように詫びてみる。
「通り道なんです、そしてあなたの枝から見える月はなぜだかほかのどの場所から見る月よりも好ましいんです」
風は応えて、馴染みの枝に腰掛ける。凪いでその丘は、一本っきりで仲間から離れて立っている冬の落葉樹と風と、あとは未明の静寂だけとなる。自分をうっとりと眺めるものたちに向けて月は、今夜はさやかな白い輝きを届けてみせた。
「きれいな色!」
まぎれもなく少女の声がした。小学校の、学年で言えば四年生か五年生か。そんなこどもがなぜこんな時間に……。
樹も風もそして空のなかの月までもが一瞬同じ沈黙を知った。葉の落ちたあとの樹の、凪いでくつろいでいる風の、遠い遠いところに居る月の三者ともが(たとえて)目を見合わせる。
「この十二月にあたしは命日を二つ抱えているの。とてもさびしくて」
少女はどこへともなく言葉を置いた。
「……十二年後のあたしがいま、街のビルの一室の孤独のなかで泣いているの」
樹も風もそして月も孤独には詳しかった。だからこそ未明に、いつからかこういう静寂の世界での、知られざるちいさな会が持たれるようにもなっていたのだ。
「二十四年後のあたしはいま、練炭を持ってそして玄関の鍵を確かめたところ。……いま、近所の駐車場に。車のドアを開けて乗り込んで……ドアを」
いろいろと〝よくわかっている〟聞き役となっていた三者は話を聴き終える前から、こういう場合には何をおいても急ぎ二十四年後の〝あたし〟の許へ駆けつけるべきだと、ことの重さを悟った。
樹は、根っこを持っているから非常につらそうに俯いた。
月も、自分が遠くから見ればちいさいけれども実はとても大きな体をしているので、一つの島国のそのなかでも一つの人間の命に寄り添って説得をするとか直になぐさめるとか、そういうことの無理・難しさを噛みしめる。
風が、翼を広げた。その透明で丈夫で柔軟な翼はどこへでも行けるし風には何でも視えるもので、間違いのなく二十四年後の〝あたし〟がシートに座っている車を目指した。
すでに〝私〟は持ってきた薬の助けを借りてうとうととしてきていた。手遅れになる前に「火を点けなくてはいけない」と、いよいよその頃合いだとぼんやりとわかる。
ためらいは特にはなく(うそだ)点火しようとする。だがその刹那、どこかから懐かしいような一篇が聴こえた。
「家路」
道のこっちっかたにあるのがシロツメ畑で
そのはんたいっかわがレンゲの畑
記憶のなかでもそしてきっと当時でも
道の右っ方にあるのがシロツメクサの群生地で
左っ方がレンゲソウの
それは家路だった
その向こうの空はかならずオレンジ色で
その少女は
空には青い時もある
ということを知らなかった
家路に背を向ければこどもは暮らせない
背を向けてどんどん行ってしまうともう暮らせない
だから少女は 生きたい と真摯に
おさない夢を懐きながら自分に
強く、願っていたのだと 思いたい
最後の「 思いたい」が二十四年前のあの日日のことを思い出させた。いや、この一篇すべてが、彼女に彼女を思い出させた。彼女は慌てて点火を止め、とりあえず着ていたダウンの襟元をしっかりと寄せてから唯一の友人に電話ののちポケットに手をしまって、束の間の、勝てない眠りに落ちていった。
この詩を書いたのは三日ほど前の、ほかでもない彼女自身だった。祈るように誓うように試みて、いったんは未練を絶つべく処分をしたはずの歌だった。それがなぜ……。
丘に戻り、二十四年前の〝あたし〟の耳許に素早く、風がささやく。
「生きたいと、君が歌って、生きたいと君が人生の希望を謳って届いたようだ。四十八年後まで行ってみた。しっかりと地に足をつけて生きている〝女性〟が居たよ、ほがらかに春の公園でノートを広げていた。何か楽しそうに書いている様子だったよ」
「それ、わかります! 私は詩を書いているんです!」
落葉樹の裸だった枝が新緑を纏いはじめ、風がそれを絃として奏でる陽気の戻りつつある未明、季節の変わり目にしてはよく晴れて、月も輝きながら静かに歌っていた。
「いつの時代にもその時代の道具であるいは方法で、昔ながらのやり方で人間は命を捨てようとする」
風の歌だが、少し冷え込む晩でもあった。
「そういう人間たちの日日の様子を見てきたから、一概に、馬鹿な真似を、とは言えない。それでも、ぼくはそういう真似をしてほしくはない」
月も同意の光りを強く投げかける。
落葉樹は、少しの沈黙のあとにちいさく言った。
「ぼくの枝の一本で遠い冬に首を吊った人間が居ました。なすすべもなく見ていました」