八柳李花『Cliché』について
kaz.
論文のような体裁をなした横書きの詩集。サリンジャーのことも書かれている。しかし文体的な影響関係はないようだ。強いて言うならこの詩の流れるような連続性というやつが、サリンジャー的なものの影響とみることができるだろう。世界に対してあくまでクソったれなものという態度を取り続ける姿勢は、サリンジャーのホールデンそのものかもしれない。
私にとって奇異に映るのは、彼女が留学を諦め就職することにした経緯などが、この詩集にはほとんど反映されていないということである。それは世界に対する憎しみ、例えば「音楽への憎しみ」として現れてはいる。確かに日本はスーパーに行けばすぐに音楽に出会うことができるし、そういう意味では音楽への憎しみはあるはずである。私はこの音楽への憎しみを、中島義道の影響と考えているが――そんなことはどうでもいい。彼女が指導教官を変えざるを得なかったという自らの虐げられた経緯が、ここの詩篇には緩やかなカーブを描くような表現で誤魔化されていて、そういう意味では彼女はあくまで詩人であって、哲学者になれなかった存在なのかもしれない。もっとも彼女が詩壇から離れてから、私は彼女の名前を小笠原鳥類詩集で再び目にすることになるのだが。
哲学者は真実を語らなくてはならない。しかし、彼女は真実を現象的に語ろうとするのではなく、存在の根底を揺さぶる言語で語ろうとするのである。その意味ではサルトルをはじめとするあらゆる哲学者を超越している。彼女は以前私に田村隆一の『帰途』の英訳を送ってくれたことがあったが、そのことを思い出すと懐かしい。結局あの英訳を誰かカナダ人に見せることは叶わなかったけれども、彼女ほど語学に堪能な人はいないという印象が私には強かった。
今はもう残っていないが、彼女が「ネット詩の耐えられない軽さ」を書いたときの心境が、私にはわかるような気がする。ネット詩は言葉とも言葉でないとも言えないものの(言えない、と言った瞬間に言ってしまっているのだが)狭間で揺れる、儚い亡霊のような存在なのかもしれない。