死にゆくベイルートの空に光はない
狸亭


荒れ果てた病院の屋上に登り
からっぽの街を見下ろす
一本の蝋燭すら点らぬがらんとした暗闇が広がる
この街は死につつある
病院の各階の二百二十あるベッドは全て閉ざされ
腎臓透析室も実験室も血液保存室もカフェテリヤも
セメント屑やがらくたや塵埃と血の臭い
この病院は何度も無情の砲火を浴びた
一九八二年イスラエル軍に
一九八五年レバノン軍に

シドン生まれの四五歳
アマール・シャマー女史は語る
デリーのホテルの部屋で見つけた新聞記事の
小さな活字の伝えるベイルートの惨状に
僕の中のベイルートが甦る

蜜とミルクの流れる国 レバノン
ベイルートに暮らしたのは
一九七二年から一九七六年の四年間
わが人生五〇年のうちの8パーセント
8パーセントにすぎない時間から
アラジンの魔法のランプから涌き出るように
あの顔 この顔

海岸通の赤い夕日
フェニシア通りからまっすぐ
リビエラホテル前を過ぎて左にだらだら曲がりながら
ピジョンロックに至る海岸通りの散歩
焼きたてのパンの匂い 人々のざわめき
ざわめきの中を通りぬけて行く
けたたましい自動車の警笛の合唱
子供たちのキラキラ光る目
エンテ ヤパーニ? ヤパーニ コワイエス
ヤパーニ コワイエス ヤパーニは英雄だ
岡本公三のイスラエル空港無差別乱射事件は
ベイルートでは拍手を以って迎えられた
僕は新しい人々を見た
生きている人々を知った
運転手ハルチュンのキングコングのような体躯の中の
やさしい気持を知った
ハルチュンはアルメニヤ人で
美人秘書のサルピさんも
家庭的なアイーダさんもアルメニヤ人
オフィスボーイのラフィーもアルメニヤ人
アルメニヤ人 パレスチナ人 レバノン人 クルト族
スーダン人も僅かながら共に暮らしている
ベイルートは人種の坩堝で
フランス人もいればイギリス人アメリカ人インド人ニッポン人まで
神が与え賜うた最も恵まれた土地に
悪魔が跳梁する

ああベイルートは果てしない抗争の中で
今死にゆく
死にゆくベイルートの空に光りがないという。



自由詩 死にゆくベイルートの空に光はない Copyright 狸亭 2003-11-12 08:07:50
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