ニコチンよ永遠に
アラガイs


依存性とは外的な要因が大きく作用してしまうものである。いくら遺伝子の魔術によって勧誘されようにも、実際に巡り合わなければ誘惑されることもないのだ。

澄んだ青空のもとで長時間待たされる。これは喫煙者にとっては苦痛だ。それが病院のような施設ならば諦めて我慢もできる。一方的に禁じられているからである。ご承知のように、いまでは駅前にも駅の構内にも喫煙する場所は皆無だ。それでもプラットホームに出れば、遥か向こうにぽつんと円錐形の灰皿が淋しそうに置かれてある。その一服を味わうために、喫煙者は真冬の木枯らしが吹き付けるなかを、とぼとぼと肩を竦めて歩いて行く。…まだ喫煙をしているのか…蝕むばかりの白い悪魔だ。味わうことのない人々が車窓の中から眺めている。なんとも不様な姿に映ることだろう。
たまに新幹線乗り場へ行けば、よく喫煙ルームが設置されてあるのを見かける。ローカル線へ向かうならば、私のポケットには種類の違うキャンディやガムがある。煙草の値段は上がった。しかもそのほとんどが税金で徴収される。追いやられ、公共の施設で天井を仰ぐとき、ぶつぶつと怒りにもならない不平を喫煙者は噛みしめる。自らの範疇を依存者として受認する末席。それでも煙幕の下僕と座してしまう。その認識自体が既に外様なのである。

くしゃくしゃになった箱から一本取り出すと火をつけた。部活帰りだろうか、対面するホームには黄ばんだ大きなスポーツバックに、だらしなくズボンをずり下げた高校生の一群がたむろしている。ふう〜と吸い込み、また煙を吐き出す姿がよほど気になるのか、ちらりと私の方をみてはまた顔を逸らす。そういえば高校生のワルどもが煙草を吹かす姿を街の角でも眼にしなくなった。まさか国民に浸透してきている禁煙キャンペーンが功を奏し、彼らのほとんどを非喫煙者、健康志向の若者に姿を変えてしまったのだろうか。 いや、そんなはずはない。たぶん途方もなく値段を吊り上げたのが功も奏したのだろう。粘着することへの覚束なさ。けれども先は見えない苛立ち。快楽を貪る大人への興味から、若者が毒葉の誘惑に惹き付けられてしまう。中毒症状の魔力とはそれを気付いた時にはじめて知ることになる。燻りは太陽を崇め祈りを捧げた。人々は救済を願い、世俗からの逸脱を瞑想の煙に求める。いつの時代も変わりはしないのだ。

一本の煙草が燃え尽きるのはやい
最初にどこでこの味を覚えたのかとっくに忘れてしまった
発ガン性が指摘され出したタールの苦さも
ふと学生をみて思い出すのは、売店でいつもにこやかな笑顔をしていた女性の姿
その前を素通りすると頑丈なコンクリートの階段がある
野うさぎのように軽やかに階段を駆け上がると広い屋上に出た
僕たちにとってそこは戦場へ向かう決死の裏階段だ
見渡せば先着の烏どもが壁に隠れて小さな輪を描いている
まるでひとつの餌でも分けあうような黒いあたまの群れ
ハイライト/セブンスター/マイルドセブン/ラッキーストライク
次々と新しい自動販売機が立ち並んだ時代
やがて手すりを越えてぷかぷかと、白い煙が雲の傍らへ消えていった 。












自由詩 ニコチンよ永遠に Copyright アラガイs 2016-03-27 05:16:01
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