ぜんぶ
ハァモニィベル
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中学の頃の話だ。近所のセントバーナード犬をよく散歩させていた。
図体は巨大なくせに子犬に勇ましく吠えられると、かならずいそいそと私の方へ戻ってくるような気弱な(あるいは優しい)奴だった。それがまた、なぜかかならず、散歩の途中で、植込みとか花木の匂いを嗅ぐと、急に振り返っては、いきなり突進してくるので、これが実に困った散歩の醍醐味であった。
い、一体 なんの条件反射なんだ、と思う間もなく、植込みがある度に、振り向いて突進された。
その頃、剣道部だった私は、体当たりにはびくともしない自信があった。
ところが、セントバーナードの突進は、ちょうど腰の、そのやや下の辺りに
突っ込んでくるのだった。この位置に突っ込まれると 面白いように
人は飛ぶのだと知った。植込みを見る度、犬は突っ込んできて、
その度に私は、反対の植込みに飛ばされた。
花や木の匂いを嗅ぐと、そこが草原だとでも思うのだろうか、
嗅ぐ度にそれを合図に「な。」とでも私に確認するような目を向け、
彼(あとできくと彼女だった)は、突進を繰り返す。わたしが闘牛士の
ように躱すと、むこうも反転して また突っ込んでくる。やがて
それを繰り返すうちに、まともに受けて飛ばされるのだ。
そうやって、飛ばされて転んだ後は、顔をべろんべろんに舐められる。
すると、こいつはこんなに巨大だったのか、とその躰とべろのスケールの違いに
驚く。ライオンに喰われているような錯覚をおぼえた。
……永遠のべろんべろんがつづきそうなので耳を掴んで「ゥォラァァァ」と
引き起こし相手を倒すと、今度はお腹をだして抱きついたまま全然
離してくれない。 そのまま地面で、ごろんごろん大喜びだった。
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あのセントバーナードにもし、
言葉があったなら、
どんな春を詠んでくれただろう
―あの大喜びを―
僕は道端の植込みを見るたび そんな事が ふと想い出される。
自然の中の 美しいものが
君にみえるよ すべて
心のなかに、咲いたり
輝いたり して仕方ないんだ
この細胞の
最後の一個まで きみを愛してる
きみの分子の一個一個まで ぜんぶ
〔一○十六年三月弐拾七日 午前二時四十三分 ハァモニィベル〕