武士の3分
カンチェルスキス
前方から、二台の自転車がやってきた。幼い女の子と母親である。ときにハンドルをくねらせ、お気に入りのアニメソングさえ、聞こえてきそうである。女の子は自転車に夢中だった。その後ろに母親。ごくありふれた日常風景である。
急に、ハンドルを握る私の手が、汗ばんだ。季節のせいだけじゃない。私も自転車だったのである。ガードレールの狭い歩道だった。どちらかが道を譲らなければ、通ることはできない。世が世なら、斬り捨て御免である。
見かけによらず、日頃から武士道な私としては、道を譲るわけにはいかぬ。未来を担い、出生率の向上で社会貢献する母子であっても、である。私は武士だ。下々を何人切ったところで、私の手は汚れぬ。心も痛まぬ。
私はハンドルを握り締め、ペダルを踏み込んだ。雑念を振り払い、前進あるのみである。武士道とは、まっすぐ行くことだ。電車道のことだ。この世で曲がっていいのは、バナナとスプーンだけである。私の気魄に気づいた下々乙、つまり母親は動揺した。恐らく、その先祖は武士に斬られたに違いない。同じ運命を辿るのか。顔には恐怖感漂う。なまぬるい風は、もうすぐ、真っ二つに裂かれる。
ところがである。下々丙、つまり女の子は相変わらず、自転車に夢中である。と言うか、自分に夢中なのである。何が楽しいのか、くねくね走らせている。抜き身の私にも全然気づかない。見てくれは童だが、実は妖術使いの仙人かもしれない。私は一瞬、怯んだ。不意に、私の武士道が、あってはならない路線変更をした。ガードレールの切れ間を見つけ、車道にハンドルを切ったのである。
すれ違いざま、母親は私に一礼した。私も頷いた。言葉交わさぬとも、なぜ母親が礼をくれたのか、私にも完璧に理解できたのである。わけもなく心打たれ、私は刀を捨てた。僅か三分の間に、平民に戻ったのである。