◎自分をいつくしむとは?—身体と、ことばの育みについて         
石川和広

          1.後進としての「私」

http://www.ittsy.net/academy/instructor/sumio2_1.htm
発達心理学の浜田寿美男氏の文より

自分のことくらいは、自分で決められるのが当然だと思っている節があって、そのことを人にも自分にも要求しがちです。だけど、そこにはやはり無理があります。
  そもそも「私」というものが、どうやって成り立ってくるかを考えればわかりますが、「私」というのは身体の後にやってくる。私たちは気がついたら生きていたんですね。「私」の成立以前のところですでに身体はあって、その身体の働きのうえにこそ「私」は、いわば後進のものとして成り立ってきたのです。(引用)

浜田氏の言う論旨は、「子離れ」についてである。「子離れ」は、親の側から言われる。けれども、浜田氏は、親に生み出された身体の、子の意識の側からの引き受けは、いわば親子お互い様の面と、子が、自身の身体を引き受けてゆく作業があり、相互作用と、それとは、次元を変えた子の実存的な面があるといっていると私には思えます。私生活で悩むことも多いことです。様々な想像を誘う議論なので、少し大きく敷衍します。
 総合的(身体的にも、精神的にも)には、子はまず、親の心にとって、親の作品です。この、身体の「親性」というか、莫大な背景性を生きることを、浜田氏は「後進のもの」と時空三次元的に見立てる。彼は、親の側の「親性」の認識の欠如に批判的である。これは、自分の意識で、何でも決めて責任を取らせるといった、自己決定論の横行する現状が、親の「親性」の欠如の追認にしか、機能していないからだ。これでは、親は、子を子として見られなくなる、或いは、親業の放棄にいたる。
 これが、もたらすのは、子が、自身の身体を、内面化された「親の作品」としての引き受けを見守る視線の崩壊である。そして、それは、内面化された「親の作品」としての、子の身体の新たな引き受けを不能にする。子自身の身体の引き受け、つまり、子による自身の身体の「自己所有性」への感度を下げ、自分のモノではない身体が、流出する。また、それが、他人の身体の愛しみの感覚も、下げてゆくことになるだろう。ネットのエロ画像に感じる「荒廃」の感覚も、こういう事情あたりからくるのではないか?
 少し、話がそれた。浜田氏は、そもそも、自分の身体が自分にとって、生老病死をとっても、ままならないことの強調から始める。これは、身体が、単に「親と子」だけから由来するものではないという感覚。あるいは、由来のわからなさ、自分でも制御できない(遺伝ひとつ取っても、そうだ)諸条件に置かれている感覚。それなのに、その身体を生き、自分の身体の豊かさと限界を感ずる感度。これらの感覚の復権といっていいだろうかとも考えた。
 つまり、私は、この感覚は、文学において作品、作者、読者、(作者としての読者、読者としての作者も含む)の関係構造と同型をなすと考える。もっと、創作一般といってもいいでしょうか。生み出すものと生み出されたものといいますか、、作品を送り届けるとき、もう先に言った「身体の引き受け」と同じことが始まっている。それを生きていると考えます。身体も、作品も自分のものであると同時に、他人と関係する媒介だからです。


      2.「原=わたし」から

さて、言葉が交わされる空間に出ていくことは、生身の「わたし」を圧縮、加工したわたしの言葉となることだと考えてみます。
作業仮説として、生身の「わたし」を「原=わたし」と呼んでみる。表現され、手渡されるとき、「原=わたし」は、どうなり、その本質は、どこへいくのだろうか。
テクスト論の文脈では、「原=わたし」は、死ぬことになる。
しかし、死んでなお、あることが多いだろう。死にきっていないとも言えるかもしれない。
私は、その死んだ、あるいは死にきっていないだろう「原=わたし」への、呼びかけが、文の原基もしくは、単位だろうと思う。
わたしらしいかどうかも、身元不明な「原=わたし」は、制度的思考だけでなく、人の情けから、推し量っても、「気味の悪いもの」「その人のものでないようなもの」、フロイトの言う「ウンハイムリッヒ=なじみのない、家の者でない」ものと、感じられている。そう、私は、しばしば感受するのです。ただ、私は、この「原=わたし」の声に、誰もがさらされながら、書いているのだろうと思う。そして、それを「亡きもの」として扱わざるをえないところに、「大人の苦しさ」は現れるのでしょう。
 「ぐっと、言葉を呑みこむ」。これはしかし、「原=わたし」の謎の呼びかけに呼応しない姿勢ではないでしょうか。あるいは、そうでは、ない場合もあると思いますが、前者で話を進めます。
 もちろん、わけのわからない「わめきちらし」をしないのは、節度あるものでしょうね。
他者への返答とはちがうところに、「原=わたし」の呼びかけに呼応しようとする言葉の営みがあって、少し見苦しいなと感じられないこともないと思う。
それに対する、自己/他者に対する、遇しかたも、様々でしょう。
しかし、まずは、出現していないとはいえ、「原=わたし」との会話、媒介なしに、私の発語はないので、一見、他者への応答責任を果たしていると見える、真面目な「大人」の発語も、それが例え、冗句のかたちをとってさえ、やせがまんにしか見えない。そして、死んだ「原=わたし」の蘇りの亡霊めいた姿に、驚くことになるのです。
それは、他者の発言に、亡霊を認め、お祓い、排除する姿勢につながりかねませんから、自戒を持って、注意したいものですな。
 ただ、注意ばっかりも、疲れるし、言葉の命が枯れていきかねません。その「原=わたし」の「亡霊」に対応するジタバタが、逆に私は言葉の元気になるときもあるだろうと思う。これは、書き始めの人も、多少慣れた人も、常に問われていると、私は感じるんですよ。だから、締めとしては、こうなるかな。
あんまりキッチリ、他者に応答する日々ばかりも、疲れるし、木でゆうと枯れてくるので自分を思い切り、抱きしめてやることも大切かな。
ちょっと、かっこつけすぎのような気もしてきたけど、最近、各所、様々な場面で、自他に感じることで…人に対して言葉で良い仕事をするには、ウオームアップも必要だと痛感する日々です。


散文(批評随筆小説等) ◎自分をいつくしむとは?—身体と、ことばの育みについて          Copyright 石川和広 2005-02-22 18:11:17
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