血の笑う声
あおい満月

骨をくわえた、
私になった犬はどこへ消えたのか。
犬は私になったのか、
私が犬になったのか、
窓辺から不意に現れた犬の、
口にくわえられた骨には、
長い髪の毛が絡みついていた。
髪の毛は海の水に晒されたかのように
金色に光輝いていた。

昔、
この場所から数千キロ離れた、
ある国で、
ひとりの女が殺されるという
事件があった。
女は紺碧の瞳に、
長い金色の髪をしていたという。
女の遺体には、
数十ヶ所に及ぶ何者かに噛みつかれた
痕があった。
歯形からして、
動物ではなく人間のものだった。
噛み傷だらけの女の唇は、
カッターにより三日月に切られていた。
心臓を突き破った弾丸は、
雨に煙る窓ガラスを突き破っていた。

めらめらと揺れる焔のなかに、
男はある一枚の写真を沈めた。
写真はモノクロだったが、
美しい女が描かれていた。
透き通るような大きな瞳に、
輝く白い、おそらく金髪であろう
長い髪。
女は男の妻だった。
男は愛という刃物で妻を切りつけようとした。
逃げ回る妻を無理やり乱暴に抱き、
妻の身体を噛みきった。
意識を失った妻に留目を射すために、
放った銃声は、
明け方の長閑な冬の田舎町に響いた。

私は父の過去を知らない。
父は私が昨夜、
私の誕生日を目前に死んだ。
脳梗塞だった。
私は母の顔も知らない。
写真すら見たことがない。
けれど、
鏡に映る私の、
少し藍色を帯びた大きな目の色や、
ウェーブがかった麻栗色の長い髪は、
母から受け継いだものだ。
知人の話によると、
私の母は異人だったらしい。
父は紛れもなく日本人。

私は昔から父が苦手だった。
機嫌が悪くなると幼い私に噛みつくかのように襲いかかろうとする姿は、
獣だった。
一緒に暮らしていた祖母がいつも庇ってくれた。
祖母は私が幼い頃から、
(いいかい、
この先何があっても生き抜くんだよ。
おまえはなにも悪くないんだからね!)
と手を握ってくれていた。
(なにも悪くないんだからね!)が、
妙に奥歯に引っ掛かっていた。

それからだった。
私が毎晩見る夢に犬が出てくるように
なったのは。
私は今、
古い図書館で見つけた、
ある記事の前で凍りついている。
1986年夏の某日、
遠く欧州の地で奇妙な殺人事件があった。その被害者は、
どこかで見たことがある美しい女性。
そして、
加害者というのが…。

私は頭が真っ白になり、
気がつけば雪道を走っていた。
何かに躓き転んだ。
膝にみるみる、
血の笑いがひろがる。

それは昔、父が見せた、
私の血を嘗めて「美味しい」と笑った
薄い三日月の唇を思わせた。



自由詩 血の笑う声 Copyright あおい満月 2016-02-09 22:31:47
notebook Home 戻る