井上靖小論
葉leaf
淵
ああ、遠いあの日のように烈しい夏がほしい。少くともあの日だけは夏だったのだ。雑草の生い茂っている崖っぷちの小道を、私は駈けていた。谷側の斜面には血のように赤い彼岸花が咲き、山側には雨のように蝉の声が降っている。そんなところを、私は駈けていたのだ。烈しい午下がりの陽は真上から照りつけ、生きているのは私と、私の行手に先回りして群がっている蜻蛉だけだった。村の人という村の人は、それぞれの家で、思い思いの恰好で死に倒れていたので、私は谷川の、羊歯と岩で囲まれた小さいインキ壺のような淵に、身を投ずるために急いでいたのだ。
井上靖は小説家として有名だが、詩もたくさん書いている。新潮社から全詩集が出ているので、是非ご一読をお勧めする。
井上靖の魅力は、何よりもその清潔さと紳士性である。文体の背後に透けて見える彼のたたずまいがとても端正なのだ。彼はエロスともタナトスとも無縁、もちろん消尽やら血なまぐさいものとも無縁、またユーモアや虚栄心、競争心とも無縁である。確かにそれらの要素は彼の内部に渦巻いていたのかもしれないが、それをきれいに統御する理性が強固だったと言える。
井上靖の詩は、ある意味小説であり、ある意味エッセイでもあり、ある意味批評でもある。彼の詩を読んでいると、世の中に流布しているジャンルの区分けなどそもそも幻想にすぎなかったのだということがよくわかる。彼はストーリーを語るし、実体験を語るし、鋭い認識を提示する。虚構の言語の戯れを詩として提出することはなかった。
彼の詩はあくまで彼の人生に根差しており、はっきりした参照点を持ち、はっきりした物語の起伏を持ち、丁寧に描写を行い、明確に批評を加える。それでありながら、なぜ彼の詩は詩であるのだろうか。それは彼が、「叙事的叙情」とでも呼ぶべきもの、また「批評的叙情」とでも呼ぶべきものを最大限活用しているからである。
私たちは、小説を読むとき、その筋の展開に戦慄したり、その描写の巧みさに感銘を抱いたりする。これを私は「叙事的叙情」と呼びたい。井上はこの叙事的叙情を彼の詩の中に凝縮して表現するのである。また私たちは、批評を読むとき、その認識のアクロバットに戦慄したりする。これを私は「批評的叙情」と呼びたい。井上はこの批評的叙情も上手に凝縮するのである。
そもそも叙情は詩に固有のものではない。小説には小説の叙情があり、批評には批評の叙情があり、それらの叙情は複数であるようでありながら本質的には一つなのではないだろうか。詩にも小説にも批評にも一つの叙情の流れが通底していて、井上は詩によくみられる類の叙情にこだわらなかった。むしろ、小説や批評によくみられる類の叙情を積極的に用い、それが実は詩によくみられる叙情と根が一つであることを熟知していた。だから彼の詩は、いかに小説や批評に似ていても飽くまで詩なのである。