光線の名残
ホロウ・シカエルボク









汚れた床に落ちた埃は
身元不明の死体に似ている
掃除機をかけて横たわると
失われた影だけが見える


固定電話が久しぶりに目を覚ます
でも答える前にベルは鳴り止んで
伸ばしかけた手は行く先を失う
もしもし、もしもし、唇の先で
発せなかった声の残響が蠢く


明かりを消した廊下は
行止りに続く路地のようだ
歩く人間が極端に限定されていて
迷い込んだ暗闇が漂ってばかりいる
再度明かりをつけたところで
そいつは見えなくなるだけで…


洗面台の鏡に映る顔は
こちらと目を合わさないようにしていた
歯ブラシをゴシゴシやりながら
焦点のずれた目玉は明後日の方を見ている
すべては口を濯いだ水と一緒にパイプの向こうへ


布団の中で本を読んでいた
二十年前のミステリ
買って一度読んで
面白いと思ったけれど
それきり読んでいなかった
内容なんかすっかり忘れていた
失くした記憶を取り戻す
そんな苦労をしている気になる時間


眠ろうとして、いつも二時間くらい
じっと天井を見つめてばかりいる
眠ろうという気持ちは
眠るという動作とリンクしない
キャッチしきれないラジオの電波みたいに
途切れた部分のノイズばかりが宙に浮いている


アラームに揺り起こされる短い眠りの中で
話のネタになるような夢をなにか見ただろうか?
目覚めは眠りを失わせる
眠りの影だけが目の淵に刻まれている
寒い朝に冷たい水で顔を洗う
これ以上忘れたものに気を取られないために


冷たく、高く、高周波数を思わせる空の下を、仕事場を目指して歩く、陽気で無軌道な学生たち、すれ違う連中を値踏みする自分のことは見えない女たち、咥え煙草の年寄、モラルの軌跡が見えない、薄暗い残像が目の前に残るばかりで…なるべく関心を寄せずにその通りをやり過ごし、温かい缶コーヒーを買って一息で飲み干す、それがその日最初に口にするもの、不自然に甘く、不自然に苦い味わいが泥水のように喉を這っていく、そして少しの間胃袋で、穏やかな火のようにともって―消える、あいつらは消化なんかされない、あいつらの成分は吸収などされない、あいつらはいつも身体の中でそうしたあと、霧になって消えていく、そう信じている、感じなくなったときが終わりだ、感じなくなったときがそいつの終わりなんだ…公園のベンチに腰を下ろして五分おきに腕時計を見る、ギリギリの少し前までこうして腰を下ろしている、これから失われる時間のことを思いながらクリアスカイを泳ぐジェット機の腹を見上げている、空の上で見る空はここから見る空と同じだったかずっと思い出そうとしていた、あそこからこちらを眺めたのはもうどれくらい前になるだろう?はっきりとは思い出せなかった、立ち上がって公衆便所で小便を垂れ、空缶をゴミ箱に捨てて歩き出す…ジェット機の窓からこちらを見下ろせば、こちらを空だと思えるかもしれない、いまならそんなふうに感じるかもしれない―ジョークだよ


タイムカードを押すまでに閉じなければならないものが幾つもある
霊能者が悪霊を封じ込めるように幾つもの扉に鍵をかける
ほとんどの扉はこの世界では必要としないものだ
そして、麻痺したぼんやりとした状態で
倒錯病患者のように指を動かす
誰かがこちらを揶揄しているが
相手にするような価値はない
掃き溜めの中で潔癖症を気取るような間抜けなど


休憩時間には誰も居ない場所を探し
少しだけ扉を開けて風を入れる
生きるとはどれほど巧妙に道化を演じられるかということで
もちろんそれは意志を持って生きるということとは何の関係もなく
いまのところ本当によくやっている
昼の食事はしない、こんな世界の中じゃ消化に悪いから


ほんの僅かな明かりのために生きてる、たとえば
行き惑った暗闇がぼんやりしている路地を
なにもないんだというように照らす明かりのために
光線のあとを追ってはならない
そこにもやはり失われたものがあるばかりなのだから








自由詩 光線の名残 Copyright ホロウ・シカエルボク 2015-12-13 22:45:14
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