アップルパイの2乗
るるりら
π(パイ)
二畳ほどもある焼き釜は
林檎とシナモンの焼ける
例えようのない良い薫りです
どれほどの林檎が燃え盛る炎に
くべられたか その林檎の数には限りがありません
讃えようもない良い匂いが
いつも窯の前で しはじめるのでした
人はほんとうに悲しいことがあるとき
上手に泣けるとは限りません
店員兼アップルパイ職人だった私は
お客様に 嘘のない笑顔をすると評判でした
けれど
大切な人を失った あの頃
気をもふれそうな私にかけられた
「嘘のない笑顔」という言葉
蜜の色に あの言葉を焼いてくれたのも パイを焼く大釜でした
窯の前に居ないときの私には
お客さまの言う「嘘のない笑顔」だというあの言葉が
受け入れ難かった
大切な人を失っておいて
ほんとうの笑顔をする自分がいるとしたら
それはそれで苦しかった
できることなら ずっと泣いていたかった
しきりに沸き起こる自己憐憫も
林檎とシナモンを重ねる時間の中に封じ込めると
高温の窯が 焼いてくれた
ほどなく いつものように高熱用ミトンも焦げるほど熱いパイの放つ いい匂い
π(パイ)×π(パイ)
あれからずいぶん時間が経ちました
あの仕事を辞めた直後に 顔面神経痛で顔が歪んだこともありますが
それも昔のことです
また新しい年がめぐろうとしています
いまでは二畳ほどもある焼き釜の あの店も ありません
なにもかも消えてなくしてしまう仕事は窯ではなく時間の仕事です
ほんとうに悲しむべきことは なになのか
ほんとうに嬉しかったことは なぜだったのか
ほんとうに大切にしたいことは なになのか
ほんとうに掬ってくれたのは 林檎の匂いだけだったのか
いまなら すこし冷静です
十二月の林檎をテーブルに 今日も ひとつ置いています
人と林檎の話を しました
ふと きがつくと
わたしは そういえば林檎にも季節があることすらしらないで居た気がします
今日の私に
いままで思いが至らなかった遠い日の林檎の花が 一個の果実となって
わたしと向き合ってくれています
なにかに自分を加工するためではない ほんとう果実が
今日の私に ほほえみかけてくれています
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この詩は、メビウスリング勉強会参加作品です。
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