ヴァイオリン・ソナタ
ヒヤシンス


 野薔薇の咲き乱れる公園で私は待っていた。
 ベンチに腰掛けている私の面前を物言わぬ者達が通り過ぎてゆく。
 遠い記憶を辿ると確かに私はここで待っていた。
 緑に塗られたベンチの端の方、そこだけ塗装が剥げている。
 公園の中央に位置する噴水は白い飛沫をあげている。
 どこからともなく幼い子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
 ふと気が付くと、散った薔薇の花びらにも美が寄り添っていた。

 私は失われた言葉を待っていた。
 長い年月をかけて、公園の門扉は錆びていた。
 隣のベンチに一人の老人が座った。
 彼は何やら独り言を言っている。
 わかってる、わかってる。
 私は彼の心の中を覗きたくなって静かに耳を澄ました。

 わかってる、わかってる。
 ふと私は恐ろしくなってきた。
 彼に私の心の内を覗かれた気がした。
 しかし今私の心を占めているものは虚無だけだった。
 怖がる必要もない。
 薄い雲で覆われた空に大きな鴉が羽ばたいた。

 私は目を閉じて昔のことを思い返してみた。
 たゆたう時空の中で私は永遠を見た気がした。
 これはまずいのではないか。
 目を開けると隣の老人は消えていた。
 わかってる、わかってる。
 老人のしゃがれたしかし明瞭な声の感覚だけが耳にこびりついていた。

 静かな平日の午後、私は不思議な感覚に囚われたまま、
 誰よりも無口であった。
 あの老人とは二度と会わないだろう。
 そして私は再び失われた言葉を探し続けることだろう。
 薔薇の香りに包まれて、私のベンチも朽ちてゆく。
 そうだ、私はスキップをしながら公園を去ってゆこう。
 
 
 


自由詩 ヴァイオリン・ソナタ Copyright ヒヤシンス 2015-11-28 04:10:42
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