すべての夜は悲しみの膝元にあり
ホロウ・シカエルボク




アパートメント二〇二の壁の裂傷
フラグメントの終焉と彼女の吐瀉物
ポリスの出動はいつでも間に合わない
彼は絶望の寝床にうずくまったまま
ダイヤルの記録は悲鳴のような声ばかり
テーブルの上のタロットは幸せを予言していたのに


雨とも霧ともつかぬ朝だった
ジョギングをする連中はパーカーをすっぽりとかぶり
車は憎まれ口の変わりにハイビームにしていた
どこかでラジオが大音量で流れていた
いかさまジャズをやっていたころのスティングのヒット曲
路肩の植込みのベッドで夜のうちに撥ねられた猫が
砂糖菓子のような瞳を見開いたままにしていた


そんな景色を見ながらよろよろと
安アパートが立ち並ぶ通りへと帰っていく売春婦は俺の知り合いだった
あの日も声をかけたかったけれど持ち合わせがなかったのさ
アニーと名乗っていた
本名だって言ってたけど誰も信じなかった
そういう女は嘘をつくもんだってみんな思ってたから


車の下に潜って作業をしてると何故だか
食いもののことばかり考えるって整備士の友達は言ってた
部品とオイルとボルトに囲まれていると
たぶん生きものであることを忘れないようにそうなるんだって
車が大好きでその仕事に就いたのに
どうしてこんなことになっちまったんだろうなって


大橋の下を潜る堤防を歩いていると
ある橋げたのスペルを間違えてる落書きに出会う
足を濡らしてまであんなところに歩いていって
あんなことを書いたやつの人生について俺は考える
気持ちは溢れているのにそれを補うものがなにもない
きっとそんな感じなんだろうと思う
違うところを歩いたやつが
飛びぬけたやつだとは限らないものだ


歯を磨くときに決まって思い出す歌がある
もう十年もその歌を耳にしてはいないのに
歯ブラシが歯を滑り始めると不意に浮かんでくる
特別思い入れもない
取るに足らない歌なのに
ここ数年ずっとその歌を思いながら洗面の鏡を覗いている


寝床の天井には音符があり
それがどんな音で鳴るのかは知らない
前の住人がこの部屋に残していったもので
かなり古い作曲家の残したものらしい
前の住人はここから程近い公園のブランコの支柱で
この楽譜に関する遺書を残して首を括ったと聞いた
これがここにあるのならいつか
そいつが現れて詳しく教えてくれるんじゃないかと思ったが
あいにく数年経っても顔を出しはしない
彼は死ぬことによって報われたのかもしれない


時々どうしようもない夜中に出かけて
堤防を降りて幾つも並んでいるボートに忍び込む
寝転んで穏やかな波に揺られながら夜空を見上げていると
人生とは無駄がボールのようにプールに詰まっているようなものだという気がしてくる
抜け出しても抜け出しても
無駄が絡み付いてまた沈んでいく
清潔なごみ捨て場みたいな光景に囲まれて
様々な神に悪態をつく
すべての夜は悲しみの膝元にあり
漠然とし過ぎるから晴れない霧のように佇んでいる


土曜は安い花を数本持ってアニーの墓に久しぶりに顔を出し
あてのない時間をそこで潰した
特別どんな話をしたわけでもないけれど
まるで近しいもののように寄り添っていた
ことが終わって時間があるときは
よくそんなふうに並んでまどろんでいた
いま彼女はどこでなにをしているのだろうか
身体を失くした売春婦には
それに代わりになるようなものがなにかあるだろうか?


日曜には整備士の友達の墓に行った
彼の墓石はタイヤを模して造られていた
身寄りのなかった彼のために
同僚たちが金を出し合ってそこに納めたものだ
その形を見るたびに俺はぞっとする
友達は決してそれを喜んでいないだろうなと思って
「気にするなよ」と声をかけた
彼がいつかポニーテールのすらっとした娘に
にべもなく振られたときにそうしたみたいに


俺はどういうわけかいまだに生きていて無駄ボールの詰まったプールで浮いたり沈んだり
寝床で天井を見上げては聞いたこともない曲のことを思い
墓参りに持参した花のことを思い
そしてのっぺりとした日常のことを思う
なにもないことに嘘をつくみたいに
楽しさを装って生きたくなんかない
週末の安酒場にたむろしてる連中みたいに
自分が幸せなんだとペテンにかけ続けるような真似は


すべての夜は悲しみの膝元にあり
スティングはもうブルーノートを忘れている
白紙だらけの俺のアドレスノートは
書かれているページにさえ電話をかける相手は見つからない
テレビをつけると名前も知らないロックバンドのライブが流れている
それは俺をどんなところにも連れて行きはしない


自由詩 すべての夜は悲しみの膝元にあり Copyright ホロウ・シカエルボク 2015-11-26 00:48:56
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