社会の中に生きる者として詩を書く
葉leaf
詩の中に生活を持ち込むことを嫌う人は一定数いる。さらに、詩によって人生に直接触れることを嫌う人もまた一定数いる。詩は此岸の出来事を扱うものではなく、彼岸へと飛翔していくものだ、そう考える人は結構いるだろう。だが、彼岸へ飛翔して創作するにあたって、生活や人生で得たものや失ったもの、生活や人生での喜びや傷、そういったものはいやおうなく反映されていくわけである。
詩を書く人もみな社会の中で生きている。社会というものは他者よりもさらにわけのわからないものである。他者ですら了解不可能であるのに、他者と共同で作り上げ、さらには自己や他者の思惑を超えて動いていく社会というものは、物質的に我々を拒むところがある。だが我々の生活や人生はこの社会というもの抜きには語れないのだ。我々はときに社会によって傷つけられ、常に社会の中での身の処し方を考えている。
社会というものは、我々が作り出したものであるにもかかわらず、我々の理解を超える混沌であり、我々に不条理なものとして対峙するものである。我々は社会とうまく付き合っていかなければならない。なぜなら、社会は我々に暴力をふるったりする一方で、我々に栄誉などの恩恵を施すものだからだ。この物質的で不条理な社会というものは、我々の生活や人生に深くかかわってくるものであり、それゆえ人間の書く詩には陰に陽に社会というものの刻印が記されているのだ。
もちろん詩に印された社会の刻印を極力排除することは可能だが、私としてはむしろ積極的にこの社会というものの刻印を詩に刻んでいっていいと思うのである。我々は社会に傷つき、社会に参加し、社会の中でうまく立ち回っていく。社会から受けた傷は、失恋によって受けた傷と等価であるだろうし、社会の中で立ち回っていくことは自然との呼びかけあいを感じるのと等価であるだろう。
社会は物質的に不条理であり、我々を常に裏切っていく。社会は人間にとっての身近な大きな謎であり、我々の不断の探求の対象となるものであるし、我々の生に深く影響を及ぼす。その中で翻弄され、傷つき、それでもうまく付き合い方を探っていく、そのような過程はきわめて此岸的であるが、豊穣で機微に満ちているわけであり、社会は詩を書く際の材料を潤沢に供給してくれる。私はこの社会という大きな謎、大きな敵の中に生きる者として、その生活の豊饒さをどんどん詩化していきたい。社会は此岸にありながらその不可解さによって限りなく彼岸的なものであり、そこには神秘すら宿りうると私は考える。世界のより深いところへといたろうとするこの詩人という人種は、世界の一つの深淵としての社会というものを積極的なテーマとしてよいのではないだろうか。