記憶の怪
ただのみきや

黒曜石は砕かれた
もうずっと昔のこと
何もかも失ってちっぽけな存在だ
もとの自分がどんな形をしていたか
思い出すこともできない
以来 変わらず尖ったまま
今も誰かの指が血を流している


流木は目覚めた
どこかの浜辺(どこもそう変わりはしない)
次の大波がくるまでは砂の枕
毎日毎晩波に揺られてすっかり丸くなった
元は何だったかなんて もう どうでも
いつかすっかり無くなるさ
海と空だけは変わらないが


詩集を閉じるように夢から覚める
いくつかの印象だけが余韻を残し
あとは薄れて往く


ポケットに空いた穴からコインが落ちた
転がるコインに追いつけない
橋から落ちて 流れの中へ
いつまでも諦めきれず 胸がきゅっとしたまま
何処にあるのかわかっているのに
もう二度と手にすることができないなんて


記憶と記録は別人
正確な記録には優秀で客観的な記録者が必要だが
正確な記憶には本人の思い込み以外何もいらない
ひとりの人の記憶(脳の裏表)の量に匹敵する
同じひとりの人の正確な客観的記録
裁きの日の神の巻物か
生きている間にお目にかかれるものではない


忘れてしまう
大切な宝物を箱に仕舞い
秘密の場所に隠しておいたことを
隠し場所を忘れるのではない
隠したという記憶を紛失してしまうのだ


幼心に誓った一途な思いも
春の霞のように
忘れたいことばかりが
忘れられずにいつまでも
不の記憶ばかりが
押入れの戸の隙間からこちらを伺っている
喜びも悲しみも溶けて往く
一本のワインの中へ 味わいとなる
ざらつく違和は違和のまま残留する
棘のように形を残して
そうそう溶けはしないのだ


となりの席の子の消しゴムを
間違って自分の筆箱へ入れてしまい
そのまま使い続けているうちに
自分のものだと疑わなくなる
幼いころは記憶を
なにかの拍子に取り違えてしまうことがある
兄弟から聞いた話だったり
自分のことが友達のことだったり


何気ない空想や思わずついた無邪気な嘘も
同じことを繰り返して話しているうちに
いつの間にかそれが記憶となることだってある
本人にとっては拠り所であり真実である記憶
だが記憶とは体験をもとに心が創り出したもの


過去の出来事を変えることはできないが
現在地から見える過去の印象が一変することは起きうる
自我が自己を喰らう日蝕に開いたブラックラックホールの重力は
時間という距離を隔てた記憶の光をも歪めてしまう
自分の生きてきた人生が空しく無価値に思えてくる
誰にも必要とされず愛されていなかったと思えてしかたがない
一本の桜の木を見上げてはその美しさに感嘆を漏らしながら
次の日には同じ桜の木の下を足元だけ見て憂いで通るように
いつも「今」が記憶に作用し「記憶」が今に作用する
記憶と感情はループとフィードバックを繰り返している
とてもいい加減で
大切で真実なもの
別人なのだ 記憶と記録は


わたしは記憶を抱えて記憶と共に生きて往く
わたしも記憶も海に溶ける泡のようなものだ
人は物ほど受け身ではいられないが
それほどものごと思い通りにできる訳ではない
望まずに砕かれて孤独の中で尖るしかなかったもの
生きるために日々己らしさをすり減らすしかなかったもの
時間と共に深層へ沈んだ もう取り戻せないもの
残された記憶は時には炎の棺桶の面持ちでわたしを閉じ込め
時には母や恋人の乳房の甘い香りとなって過去への郷愁で満たす
まったくいい加減で曖昧
共生している妖 それが記憶であり 
わたしがわたしである拠り所
ならば記録と記憶のこの乖離を
楽しんだ方が得というものだろうか
比喩とイメージ まるで詩の中のよう


正しい記録に関して心配はしていない 
神がお持ちなのだ



                     《記憶の怪:2015年10月3日》











自由詩 記憶の怪 Copyright ただのみきや 2015-10-03 22:29:42
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