北原白秋顕彰短歌大会
そらの珊瑚

創作をやっている人ならば、公募に応募して自分の作品の評価というものを
知りたいと思う人は少なからずいるかもしれない。
そんな方に、なにかの参考になればと、まあ、ならないかもしれないが、記しておきたいと思う。

私が最近初めて応募してみた福岡県柳川市が主催する北原白秋の短歌の公募は、出詠料千円が要る。
参加者には後日応募作品を印刷したなかなかしっかり製本された詠草集なるものが送られてくるので、出詠料はその費用だと思われる。
(参加作品には無記名で番号だけがふってある)
その中で自分がいいと思った作品5首の番号をハガキにて送り返し、
点数の高いものは互選の部にて選出されるシステムらしい。
もちろん選者の方が選ぶ賞もある。

今回391首の応募があって、それを丹念に読みほどくのは面白く、勉強になった。
そのなかで私がいいと思った作品をあげてみたい。(自作ではありません)

 【仰向けに道に落ちいる蝉よ蝉もう充分に楽しんだかい】

短歌の素養がない私にもすっと理解できるような平易な言葉で編まれていて、かつ味わい深い作品であると思う。

道のあちこちに死んだ蝉、もしくは死んでゆくであろう蝉が転がっている風景に、誰しも心当たりがあるのではないか。
この作品の蝉はおそらくその脚がじわじわとまだ動いているであろう蝉だろうと想像する。物体になる前の生き物へ、作者は何かを言わずにいられなかったのではないか、と。
たった一週間の命であるのに、大音量の声で生き抜いた小さな生き物へ「充分に楽しんだかい」と問いかける作者のそのまなざしは同時に、人間を含めた命ある者たちへの生への肯定であり賛歌であるのではないかと思う。「楽しむ」っていいよね。楽しまなきゃソンだ。問いかけの先になんの答えも用意されてないという点も、いい。この世にあふれる問いのそのほとんどに、答えなどないのかもしれない。
蝉の境遇にはおそらく差異はなく、その最期はすべからく行き倒れであるのに、その姿にあわれを感じないというのは、私にとっては発見だった。
人間だったら、こうはいかない。
死を提示させているのに、いい意味で軽さがあるのは、蝉の身体のほとんどが空洞で軽いということにも起因していそう。命は地球より重いと言われたりするが、その一方でたやすく消えてしまえる、はかない存在でもあるのではないか。
いずれにしても今際のきわでこんなふうに看取られる蝉は幸せ者だなあ。。

あっあと、「落ちいる」とは「息をひきとる」という意味でもあるらしい。現代ではあまり使われなくなった言葉の感があるが、そう古めかしい気がしない。簡単に使っているようでいて、なかなか出てこない言葉であるのではないかとも思う。


散文(批評随筆小説等) 北原白秋顕彰短歌大会 Copyright そらの珊瑚 2015-09-26 11:29:25
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