紙折る手
あおい満月
最近になるまで気がつかなかったことであるが、わたしは仕事でよく手を使う。いや、手が仕事だと言っても過言ではないくらいに。べつに美容師やエステティシャンやマッサージ師ではない。某公共料金の申込書の封入や折り込みである。 金融機関の案内書を三つ折りにする。しかも一日、多いときで300枚以上。折り紙大会である。折り紙。端と端をきっちり合わせて、案内の文書が上にくるように出来るだけきれいに折る。時折ずれる。階段を踏み外したみたいに。それでも後戻りはせずにセットしていく。
幼少の頃、折り紙は大の苦手で、お財布ぐらいしか折ることが出来なかった。成人してやっと鶴や紙ヒコーキが折れるようになったのだ。一時期は折り鶴にはまった。新宿で行われていた大きな詩の朗読会の最中でさえ折り鶴を折っていた。幸い、観客だったからまだ救われていたが。「どなたかご病気のかたでもいらっしゃるんですか」などと某詩人に声を掛けられたりもしたが(あのときは流石に赤面した)。 折り紙エピソードでもうひとつ思い出すことは、『切り絵』である。紙を今度は切り刻む事だから、逆説じゃないかと思う方もいるだろう。切り絵は、わたしが先天性の両足関節の病で入院していた幼少の頃に、看護師に教えて貰った。はじめは四角や三角におって角や脇を切っていく。広げてみると如何なものか。四角のものはクローバーの葉に、三角のものはダイヤモンドになる。この切り絵の世界にどんどん魅了されたわたしは、小学校に入ってもノートや要らない紙を折っては切り絵を楽しんだ。ついた渾名は『紙切りおばさん』である。
ここで、ふと、現在に戻って、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻・長沼智恵子を想ってみる。智恵子は生前、重度の統合失調症に苦しみながらも、切り絵を描いていた。智恵子が切って描いた切り絵を写真で見たことがある。殆どが鳥やそういった空にはばたいていくものがモチーフだった記憶があるが、その才は素晴らしかった。智恵子の心を投影した作品だった。智恵子は、わたしの勝手な推測だが、同じ彫刻家を目指していた光太郎への憧れと、同時に巻き起こる激しい嫉妬を、切り絵という形にしたのかもしれない。自分の精神が死に至る間際まで、芸術家であろうとした智恵子にわたしは深い感銘を受けた。今、わたしの右手は、お湯に浸けると直ぐに皺になる。時給の安い臨時職員(パートタイマー)だが、35になる年にやっと適職に辿り着けた安堵で今はほっとしている。一緒に暮らす母親はそんなわたしを罵倒しながら、バッカスの如く夜酒を浴びているが。