ホットミルク
愛心

不眠症の彼に、ホットミルクを淹れるのがわたしの仕事だった。






ある夜をきっかけに、彼は眠ることを忘れたという。
どんなに体が疲れていても、睡魔は彼には訪れず、ねばつくような夜の闇の中で、ぼんやりと空を見ているのだと。
「眠いけど眠れないんだ」
珈琲の匂いを含んで呟いて、殆ど吸わない煙草に噎せていた。

彼のはつらつとした表情は、だんだん老人の顔に似たものになり、涙袋には夜空を溶いたような隈ができるようになった。

彼はわたしに気にせず眠るようにと言うけれど、愛した人を放って、自分だけ逃げるような真似はできず

せめてもの慰みに
ホットミルクを淹れるようになった。

深夜0時をまわるころ、 マグカップの中の温めた牛乳に大さじいっぱいの蜂蜜を入れる。
彼に手渡す頃には、わたしは寝ぼけ眼だ。
ダブルベッドに腰掛けて小説を読んでいる彼に手渡すと、嬉しそうに悲しそうに、ありがとうと受け取ってくれる。

おやすみ

短く呟き、隣に潜り込むわたしに背を向けたまま、空いた左手でわたしの頭を撫でる手。
彼の手は暖かくて広くて、彼が飲み終わる前にわたしは心地よさに眠ってしまう
それでも、
目を覚ましたわたしを見て

少し眠れたよ

と優しく笑うから
嬉しくて嬉しくて、欠かさず作ることにした





眠れなくなって半年、わたしがホットミルクを手渡すと彼は静かに目を伏せて、一言、ぽつりと呟いた

いらない

呼吸だけで形作られたそれは、痛いほどに響き、鼓膜を揺らし、脳髄を叩いた
ベッドのサイドテーブルにマグカップを置いた音に、彼は肩を震わせ、膝を抱えた

死んでしまう と 直感的に感じた

今夜眠らなければ彼は死ぬ
うたたねではもう足りない

焦りと不安と恐怖
ホットミルクはわたしのただの自己満足だったのか
考えるより先に体が動いた

わたしより大きかった体を抱き締める
荒い呼吸と泣き声
まるでこどものようで、より強く抱き締めた

背中を撫でながら、優しく語りかける

どうか、眠れますように
安心して眠れますように
静かに眠れますように
ゆっくり眠れますように
どうか、眠れますように

だいすきよ、だいすき
ずっとずっとだいすきよ
あなたを失いたくないの
眠って欲しいの
眠らなきゃ、死んでしまう

おやすみ、おやすみ

あいしてる




いつの間にか、わたしは彼を抱き締めたまま眠ってしまったようで、朝、目覚めるとベッドの中 にいた。
彼は隣にいなくて、思わず目線を下に向ければ、わたしの胸元は薄墨をかけたように薄く汚れていた。

おはよう

涙が張った視界に彼が笑っていた
トレーにマグカップを2つ乗せて、隈が消えた顔で

よく眠れたよ

と優しく笑うから
嬉しくて嬉しくてホットミルクが少ししょっぱくなってしまった


自由詩 ホットミルク Copyright 愛心 2015-08-29 20:08:33
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