夜更けの紙相撲・静かなお盆
そらの珊瑚
自分という存在が、絶対的にひとりだと、気づいたのはおそらく子どもだった頃と思う。
なんでもない日の、なんでもない朝。赤いランドセルを背負い、竹で出来た定規をそのふたの隙間からのぞかせていた、小学校へ向かう道ばたで。
心の中にあふれてくる思いを、自分と同じように理解してくれる人はいないのだなあと思うことは、ひどくさみしいことだった。
それは生活という中で器用に忘れていても、ふとしたときに、波に揺り戻されるように、またよみがえってくる。
そのたびに、ぼんやりとしてみせながら、その時をやり過ごした。
ひとりだということを肯定し、たとえば自分が大海に浮かぶ一個の浮標のようなものだと受け入れるには、長い時間が必要だったし、様々な経験も必要だったのだと思う。
爪の先までわかりあえると思った人でも、そうではないと知った時、私は自分の足でちゃんと立って生きていかなくてはならないと、何かに決別するような気持ちだった。
孤独であることを受け入れたあとは、さみしいというより、どこかすがすがしい気分だ。
羽根はないから鳥の気持ちの本当はわからないけれど、想像するなら、鳥が自分の羽根だけで空を飛ぶような。
そうしてみれば、この世の中の偶数というものが奇跡のように愛おしい。
手や足、目や耳、人間の身体にはそういえば対をなすものが多いのは、何かの符号なのだろうか。
私というひとりの存在の中には無数の偶数の人間がいて、そうやって繋がれてきた命が自分という肉体を作っていることに、手を合わせる。
死ぬということは祈られる側で、生きているということは祈る側だと思っていたが、もしかしてそんなふうにきっぱりと線引きできる世界ではなく、死んだあとも手を合わせているだろうし、人の中で生き続けるものではないだろうか。
もう誰も住まなくなった夫の実家の仏壇に、義父母の写真が並んでいた。
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